「適材適所」の人事
その後、アイゼンハワーは、1942年3月に新設された「参謀本部作戦部長」に任命され、少将に昇任する。1942年5月、北アフリカ上陸作戦について英国側との調整のため出張していたアイゼンハワーが帰国すると、すぐにマーシャルは上陸作戦について質問し、細かな説明を聞き終えると「貴官が作った作戦を、貴官が実行せよ」と命じた。
1942年6月、アイゼンハワーは、「欧州戦域連合軍司令官」に任じられ、ロンドンに派遣される。そしてまもなくオーバーロード作戦を指揮する「連合国遠征軍最高司令官」に抜擢される。これはマーシャルの推薦が大きかった。
最高司令官をとりまく諸将の顔ぶれはどうだったか。
直接補佐する最高司令部には、「副司令官」としてテッダー英空軍大将、「総参謀長」としてスミス米陸軍中将、スミスを補佐する「総参謀副長」としてモーガン英陸軍中将。頭脳明晰、実行力に定評のある幕僚達が大計画をまとめ上げることになった。
アイゼンハワーは、「司令官と参謀長との関係は人と人のつながりであって、私とスミスの関係は完璧に近く、この作戦の成否はこのコンビにある」としてスミス中将を要望したといわれている。
アイゼンハワーは、スミスを評して「問題の大綱をつかむとともに、あらゆる細部にも通じていた。強い性格、鋭いカンを持ち、調和をもたらす」といっており、この辺に「参謀長」(事業計画の立案補佐者)として必要とされる資質があるのだろう。
「作戦部隊指揮官」として、「地上軍司令官」には、頑固だが戦略眼に長けた英陸軍最長老のモントゴメリー英陸軍大将、「海軍総司令官」にはラムゼー英海軍大将、「空軍司令官」にはマロリー英空軍大将、そしてアイゼンハワーの最も信頼する部下であるブラッドレー米陸軍中将は「米軍地上部隊指揮官」として配置された。
一方、当時のドイツ軍は東部戦線において、ソ連軍と死闘を繰り広げており、絶望的な戦いの中で着実に敗北の道を歩んでいた。
米英連合軍を迎え撃つドイツ西方総軍は、「司令官」にルントシュテット元帥、隷下に2個軍集団及び1個装甲集団の総兵力58個師団約95万人を擁していた。
隷下の軍集団には、「B軍集団司令官」にロンメル元帥、「G軍集団司令官」にブラスコビッツ上級大将、「装甲集団司令官」にシュベッペンブルク大将の各将軍が配置されていた。いずれの将官も歴戦の勇士であり、名将達ばかりだった。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「80周年 ノルマンディー上陸作戦に学ぶ経営戦略」)。