私はこの10年あまり、シャーリイ・ジャクスンの短編を何度も訳し直している。3ページほどのごく短いものなのに、訳すたびに謎が立ち現れる。「この帽子はいつからここにあったのか?」「誰のものか?」「この机の傷はなぜあるか?」などと。
ジャクスンの作品のように油断がならない映画
映画『Shirley シャーリイ』はそれと似たような“読み心地”をもっている。観返すたびに思わぬ森の小径が発見されるのだ。伝記小説『Shirley』を原作とした評伝映画だが、ジャクスンの作品のように油断がならない。
映画中、シャーリイは18歳の女子大生ポーラの失踪事件にヒントを得て、『絞首人』を執筆している。この小説と映画は、構成や人間関係において相関があるだろう。
まず、『絞首人』の18歳の女子大生ナタリーの父親と夫・スタンリーの相似。どちらも高圧的な文章指導を通して娘・妻を管理し支配しようとする。また、幻想妄想とも現実ともつかないシーンが不意に挿入される点などにも相通じるものがある。
『絞首人』はナタリーの脳内とリアルが地続きになっているのだが、こうした虚実の混交は、映画では終盤に向けていっそうエスカレートする。
見る角度によって変幻する二組の夫婦の構図
二組の夫婦の関係性も重要だ。脚本家が指摘するとおり、シャーリイとスタンリー、教授補佐のフレッドと妻ローズの四角関係は名戯曲『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を想起させる。
とはいえ、先行作との違いは、見る角度によって構図が変幻することだ。たしかに序盤では、「すでに地位を確立した中年の夫婦」対「まだ業績のない若い夫婦」という対抗が見え、後者の立場が圧倒的に弱い。
そこへ、「大学教員の男たち」対「夫に抑圧される女たち」という図式が次第に浮かびあがり、ローズとシャーリイの絆に焦点が当たる。
ここで終われば、本作は今時のシスターフッド映画になっていただろう。その先がある。
スタンリーはブルックリンの超正統派ユダヤ教徒というマイノリティの出身であり(ブルックリンは同宗派の大規模コミュニティをもつ)、自分の妻は西海岸に生まれNY州の工業都市ロチェスターに移り住んだ中産階級の出だ。
富裕層の家庭で何不自由なく育ったWASPのフレッドに彼が強烈な劣等感と嫉妬心を抱いているのが、わかってくる。だから、フレッドの論文を読み渋り、ポジションを与えたがらないのだ。
「この世は女の子たちには残酷すぎる」
この映画は、どの構図を前景化して観るかで結末の意味も変わってくるだろう。作中、シャーリイが“lonely girls who cannot make themselves seen”(存在するのに目に映らない孤独な女の子たち)と叫ぶ場面がある。
社会で不可視化されたそういう弱い存在を彼女はいつも見ていた。そこには失踪したポーラだけでなく、かつての自分も含まれているはずだ。「この世は女の子たちには残酷すぎる」と彼女が言うとおり、これは見えない弱者が主人公の物語とも言える。