一条天皇は、「光る君へ」で描かれているように、定子を寵愛していた。しかし、それは当時の宮廷社会においては、きわめて常識外れのことだった。定子の父の藤原道隆は、関白にまで上り詰めたとはいえ、すでに病死していた。兄弟も流罪となり、赦免されて都に戻ったものの、かつてのような地位にはなかった。
つまり、定子には後ろ盾がなく、そのうえ彼女自身が出家してしまっていた。出家した以上、一条天皇とは離別したものとみなされるのが当時の常識で、すでに定子は一条天皇が目を向けるべき対象ではなくなっていた。
ところが、一条天皇は常識などお構いなしに、定子を寵愛し続けたのである。長徳3年(997)6月には、定子を内裏に近接した職の御曹司に戻していた。
もし、このまま一条天皇が定子に皇子を産ませれば、皇子の外戚になる甥の伊周や隆家が権勢を取り戻し、自分は追い払われてしまうかもしれない――。道長はそんな焦りに駆られたと思われる。だから、彰子の入内を急いだのである。
一条天皇の焦り
永延2年(988)に生まれた彰子は、道長が、「光る君へ」で黒木華が演じる正室の源倫子とのあいだにもうけた第一子であった。
「光る君へ」の第25回では、道長が一条天皇に辞表を提出したが、これは長徳4年(998)3月のこと。年が明けて長保元年(999)になると、道長は2月に、数え12歳(満年齢は10歳)にすぎない彰子の裳着(女子の成人式)を行った。
むろん、そのスケジュールは事前に組まれていただろう。そして、彰子の裳着が、彼女を入内させるための準備であることは、だれの目にも明らかだった。一条天皇とすれば、最高権力者である道長の娘が入内すれば、尊重しないわけにはいかない。とはいえ、数え12歳の少女が懐妊し、出産するとは思えない。
この時点で一条天皇には、まだ皇子がいなかった。従兄で春宮(皇太子)の居貞親王(のちの三条天皇)には、すでに皇子がおり、このまま自分に男子が生まれないままだと、自分の皇統は途絶えてしまいかねない――。それが一条天皇の立場だった。