その11日後、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』によれば、道長は霍乱(現在の急性胃腸炎)で倒れている。
前代未聞の「一帝二后」制度
この当時、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭は、「光る君へ」で渡辺大知が演じる藤原行成だった。行成によれば、敦康親王の誕生に、一条天皇はよろこびを隠さなかった。一方、道長はみずからの日記である『御堂関白記』で、一条の皇子誕生について一切触れていない。
触れたくない事実だったのだと思われるが、道長としては手をこまねいているわけにはいかない。まだしばらく懐妊の可能性がない彰子の立場が、後宮のなかで低下しないように策を講じる必要があった。
ちょうど12月1日、太皇太后昌子が亡くなった。当時、后は太皇太后、皇太后、皇后の3枠で、空席がなければあらたにその地位には就けなかった。だが、席がひとつできた。そこで道長が考えたのは、その空席に彰子を入れ、皇后の別称である中宮とし、一条天皇という一人の天皇のもとで、前代未聞の「一帝二后」を実現することだった。
それにあたって道長が頼ったのは、姉で一条天皇の母である東三条院詮子と、藤原行成だった。まず、詮子が一条天皇に手紙を書き、それを行成が一条に届ける。一条はどうしたものかと行成に尋ね、行成が進言する、という手順だった。
「一帝二后」が必要だという理屈は、次のようなものだった。日本は神国なので、天皇もその后も神事を務める必要がある。ところが、定子は出家して仏教における尼になっているので、神事を務めることができない。だから、彰子を中宮にして、神事を務めさせる必要がある――。
道長に義理堅い行成の説得もあって、一条天皇はこの進言を受け入れるしかなかった。彰子の立后の儀が行われたのは、長保2年(1000)2月25日のことだった。
大人に翻弄された「争い」の結末
そもそも道長は、「一帝二后」を実現する以前から、一条天皇が彰子に少しでも惹かれるようにと必死だった。『栄花物語』によれば、女房40人、童女6人、下仕え6人を、容姿や人柄のほか出自や育ちのよさにこだわって選りすぐったという。