男子がほしい一条天皇だが、近く入内するであろう彰子には、まだ懐妊する力がない。一方、貞観元年(976)の生まれで、彰子より一回り年長の定子は非常にいとおしい。彼女は貴族社会からは総スカン状態だったが、女子を産んだ実績はある。
一条天皇なりに逡巡したと思われるが、結局、彰子の裳着が行われる前後に、定子を一時的に内裏に戻した。むろん、目的は「妊活」だったと思われる。人目を忍んで職の御曹司に通うだけでは、十分な「妊活」はできなかったということだろう。
公卿たちが彰子に期待した理由
ここからは定子と彰子、事実上は一条天皇と道長の駆け引き合戦が熾烈化する。とはいえ、道長のほうが応援団は分厚かった。そもそも、2月9日の彰子の裳着には、右大臣の藤原顕光をはじめ多くの公卿が参列した。倉本一宏氏は、その理由をこう記す。
「後見のいない、しかも出家している定子から皇子が生まれでもしたら、道長と定子の関係、また道長とその皇子との関係、さらには道長と一条天皇の関係がうまくいくとは思えず、政権、ひいては公卿社会が不安定になるという事態は、大方の貴族層にとっては望ましいことではなかったはずである」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)
その後、懐妊した定子は8月9日、出産場所となる平生昌邸に引っ越した。このとき一条天皇は、公卿たちに手伝うように命じたが、ほとんどだれも従わなかった。催促され、藤原時光と実資がやってきただけだった。
道長がわざと同じ日に、宇治への遊覧を企画して公卿たちに誘いかけ、みな、そちらに参加したのである。道長の定子への露骨な嫌がらせだが、公卿たちが道長に従った理由もまた、上記した倉本氏の見解のとおりだと思われる。
そして、いよいよ11月1日、彰子は入内し、多くの公卿が付き従った。7日には彰子を女御にするという宣旨(天皇の意向の下達)が下った。ところが、奇しくも同じ日、定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産したのである。