処女の体臭を追い求める調香師が主人公の『香水 ある人殺しの物語』
さて次に何を紹介しようかと仕事部屋の本棚を眺めていると、目に留まったのは『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント著 池内紀訳(文春文庫)だった。
これはホラーなんだろうか? と一瞬迷ったがまあホラーであろう。
18世紀のパリに生まれた、異常に(天才的に)鋭い嗅覚を持つ主人公・グルヌイユ。孤児だった彼はやがてその才で香水の調香師になるが、ある時嗅いだ至高の香りに囚われる。その香りの正体は処女の体臭であり、グルヌイユはその香りを集めるためにうら若き乙女たちを次々殺していく(死体に脂を塗って香りを移すのだ)……というのが主なあらすじだ。
これだけ聞くと「サイコパスの猟奇ホラー」のように感じられるかもしれないが、この物語の魅力は、あまりに奇妙な空気感と果てのない闇にこそある、と思う。
詳しく書くとネタバレになるのでぼかすが、まずグルヌイユという人物が、おおよそ人間とは思えない妙な存在なのである。ありとあらゆる匂いを感じ取る天才にして、自身は無臭の男。当然ながら無臭の人間など現実にはいない。
彼は様々な人と出会い、別れ、調香師として身を立てていくが、不思議なことに彼と関わった人々は、別れたあと軒並み不幸になる(当然彼が手を下したのではない)。
物語から退場したあとのサブキャラクターたちがどうなったかなんて蛇足もいいところだ。しかしその描写があるからこそ、グルヌイユの人知を超えた異常さが際立ってくる。
さらにグルヌイユは変化も成長もしない。調香の知識はつくが、元々天才だったので上達したわけではないし、精神的な成長らしきものもない。
彼は徹頭徹尾、香りというものに執着しているだけ。香りがすべてであり、エチルアルコールに香りを閉じ込めたいという目的のみで生きており、そこに葛藤はない。なので乙女たちを殺すときも罪悪感はなく、快感すらもない。彼は善悪を超えた、酷く純粋な存在なのだ。
悪人というのはわかりやすく怖い存在だが、よくわからない「世界の異物」には違う恐ろしさがある。ラストのあっけない幕切れもまた、彼が世界の異物であったことを示すようだ。
ちなみにこの小説は翻訳が非常に読みやすいことも魅力だ! 海外小説でよく見る「いかにも直訳っぽい文章」が苦手でつい敬遠してしまうという方も、この小説では現実に引き戻されることはなく、不思議な世界に耽溺することができると思う(私がそうだった)。