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連載本数は常に20本以上…森永卓郎(66)を作家としても“売れっ子”にした「ある先輩ライターの教え」

『がん闘病日記』より #3

2024/07/11
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「生活苦から仕事を始め、これまでつねに20本以上の連載を抱えてきたが、穴を開けたことは一度もない」――経済アナリストとしてだけでなく、作家としても活躍する森永卓郎さん。書き手としての成功の背景には、「ある先輩ライターからの助言」がありました。新刊『がん闘病日記』(三五館シンシャ)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

経済アナリストの森永卓郎さんが作家としても成功できた理由とは…? ©文藝春秋

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社会人4年目・森永卓郎

 社会人4年目の1984年、私は経済企画庁総合計画局労働班に出向した。

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 そこで中名生隆という計画官(課長)に出会った。彼は、部下を集めてこう言った。

「良い情報は後回しでいい。まずい情報はすぐに上げろ」「自信のある仕事は締切まで自由にやれ。ダメだと思ったら、すぐに上げろ」

 指示はそれだけだった。そして、日中はずっと新聞や本を読んでいた。しかも、終業のベルが鳴ると、引き出しからウイスキーの瓶を取り出して、毎日、自分の席で顔が真っ赤になるまで、ひたすら飲んでいた。

 その後、中間管理職の副計画官(課長補佐)が人事異動で空席となったため、私が事実上の労働班のトップとなった。

 中央官庁では、課長補佐が中心になって仕事を仕切る。だから私は、責任のある仕事を自由にさせてもらえるようになった。あまりに仕事が面白くて、毎日午前2時とか3時まで働いた。

 ある日、国会質問の事前通知で、政策の経済効果を問う質問が出た。難しい推計で、私の手にあまった。私は計画官の指示を思い出し、相談した。

 赤い顔をしていた計画官が突然毅然として、データの取り方から、推計の計算式まで、じつに的確な指令を下し、推計はあっという間に完成した。計画官は、危機対応のために、毎日席で酒を飲んでいたということを初めて知った。

 中名生計画官の危機管理能力の高さは、海外出張でも発揮された。

 日仏経済専門家会議に計画官と局長が、かばん持ちの私を帯同してパリに向かった。

 私は会議の議事録作成という役割も与えられていた。会議は英語で行なわれる約束になっていたが、途中から局長が突然、得意のフランス語でしゃべり始めてしまった。

 私は顔面蒼白となった。何を言っているのかまったくわからないから、議事録が作れない。

 私は、フランス語で話した出席者のところに飛んでいき、「いま、なんと発言したんですか」と聞いて回って、なんとか議事録の作成にこぎつけた。会議で中名生計画官は、ずっと日本語で話をしていた。それを大使館の通訳が英語に訳していた。

 会議が終わって、われわれはOECD(経済協力開発機構)の日本代表部を表敬訪問し、その足で日本に戻る航空機に乗るため、シャルル・ド・ゴール国際空港へと向かった。

 局長は大使館のクルマに乗り込み、私と計画官はタクシーだった。ところが、空港への道中で私は重大なミスに気づいた。会議で配布された資料をすべてOECDの日本代表部に置き忘れてきてしまったのだ。

 私は焦ってドライバーに英語で話しかけた。いますぐOECDに戻ってほしいと伝えたのだが、ドライバーは英語をまったく理解しなかった。クルマはどんどん空港に向かって走っていく。私は目の前が真っ暗になった。