「生活苦から仕事を始め、これまでつねに20本以上の連載を抱えてきたが、穴を開けたことは一度もない」――経済アナリストとしてだけでなく、作家としても活躍する森永卓郎さん。書き手としての成功の背景には、「ある先輩ライターからの助言」がありました。新刊『がん闘病日記』(三五館シンシャ)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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社会人4年目・森永卓郎
社会人4年目の1984年、私は経済企画庁総合計画局労働班に出向した。
そこで中名生隆という計画官(課長)に出会った。彼は、部下を集めてこう言った。
「良い情報は後回しでいい。まずい情報はすぐに上げろ」「自信のある仕事は締切まで自由にやれ。ダメだと思ったら、すぐに上げろ」
指示はそれだけだった。そして、日中はずっと新聞や本を読んでいた。しかも、終業のベルが鳴ると、引き出しからウイスキーの瓶を取り出して、毎日、自分の席で顔が真っ赤になるまで、ひたすら飲んでいた。
その後、中間管理職の副計画官(課長補佐)が人事異動で空席となったため、私が事実上の労働班のトップとなった。
中央官庁では、課長補佐が中心になって仕事を仕切る。だから私は、責任のある仕事を自由にさせてもらえるようになった。あまりに仕事が面白くて、毎日午前2時とか3時まで働いた。
ある日、国会質問の事前通知で、政策の経済効果を問う質問が出た。難しい推計で、私の手にあまった。私は計画官の指示を思い出し、相談した。
赤い顔をしていた計画官が突然毅然として、データの取り方から、推計の計算式まで、じつに的確な指令を下し、推計はあっという間に完成した。計画官は、危機対応のために、毎日席で酒を飲んでいたということを初めて知った。
中名生計画官の危機管理能力の高さは、海外出張でも発揮された。
日仏経済専門家会議に計画官と局長が、かばん持ちの私を帯同してパリに向かった。
私は会議の議事録作成という役割も与えられていた。会議は英語で行なわれる約束になっていたが、途中から局長が突然、得意のフランス語でしゃべり始めてしまった。
私は顔面蒼白となった。何を言っているのかまったくわからないから、議事録が作れない。
私は、フランス語で話した出席者のところに飛んでいき、「いま、なんと発言したんですか」と聞いて回って、なんとか議事録の作成にこぎつけた。会議で中名生計画官は、ずっと日本語で話をしていた。それを大使館の通訳が英語に訳していた。
会議が終わって、われわれはOECD(経済協力開発機構)の日本代表部を表敬訪問し、その足で日本に戻る航空機に乗るため、シャルル・ド・ゴール国際空港へと向かった。
局長は大使館のクルマに乗り込み、私と計画官はタクシーだった。ところが、空港への道中で私は重大なミスに気づいた。会議で配布された資料をすべてOECDの日本代表部に置き忘れてきてしまったのだ。
私は焦ってドライバーに英語で話しかけた。いますぐOECDに戻ってほしいと伝えたのだが、ドライバーは英語をまったく理解しなかった。クルマはどんどん空港に向かって走っていく。私は目の前が真っ暗になった。