9年ぶりの新作映画『お母さんが一緒』が公開中の橋口亮輔監督(62)。ゲイであることをカミングアウトし同性愛者、家族のドラマを撮り続けた橋口監督が語る“映画界の変化”、そして“家族観の移り変わり”。(全2回の後編/前編を読む)
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ゲイである自分を100%肯定できたニューヨークでの経験
――初長編作『二十才の微熱』(1993)が公開された翌年の夏、橋口さんはゲイゲームズ(同性愛者が参加する総合競技大会)を取材するため、開催地のニューヨークを訪れています。
橋口 そのとき前年の映画祭でお世話になった小山さんという方のお宅にホームステイしました。最初は2週間ほどの予定でしたが、小山さんは元パートナーをエイズで亡くしたばかりで、「橋口くん、もう少しここにいて」って。結局、3ヵ月くらい引き止められて、元パートナーの話をずっと聞かされました。そのニューヨークでの経験が本当に大きかったんですよね。
――それはどんな経験でしたか?
橋口 亡くなった元パートナーの人はイタリア系移民の息子でカトリック。カトリックでは同性愛が罪なので、父親に勘当され、しかも東洋人と付き合っていたためずっと疎遠になっていたそうです。でもエイズになり、その影響で脳のがんを患い、最後は体中の水分がなくなりミイラみたいになって亡くなった。汗もおしっこもまるで出ないような状態だったといいます。
そんな彼のもとに、父親が別れのあいさつをしに来たそうなんです。そして干からびた彼の手を握って、男泣きに泣いたと。すると、ミイラのようになり、水分がまったくない状態の彼の目から、大粒の涙がわらわらと零れ落ちたというんです。小山さんは言いました、「橋口くん、あの涙はいったいどこから出てきたんだろうね」って。
その話を聞いたとき、涙を作りだす人間の魂の力はなんてすごいんだろう、人間はなんて美しいんだろうと心から思ったんです。それは初めてゲイである自分を100%肯定できた瞬間でもありました。その経験がなければ、『渚のシンドバッド』はあんなふうに人間を肯定する作品にはならなかったはずです。