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「彼はエイズになり、ミイラみたいに干からびて亡くなった」橋口亮輔監督(62)の人生を変えた、夏のニューヨークでのできごと「そのとき初めてゲイである自分を肯定できた」

橋口亮輔インタビュー #2

2024/07/13

source : 週刊文春CINEMA オンライン オリジナル

genre : エンタメ, 映画, ライフスタイル

note

映画を通じて、自分も親に守られて育ってきたことを実感

――『お母さんが一緒』に際し、橋口さんは「うっとうしいとかめんどうくさいとか思いながらも、やはり家族はかけがえのないもので、つねに自分の真ん中にある」とコメントしています。家族観が大きく変わったんですね。

橋口 自分も年を取りましたから(笑)。『お母さんが一緒』のなかで、3姉妹の長女に扮した江口のりこさんが、鼻歌を歌いながら妹のブラウスにアイロンをかけるシーンがあるんです。おそらくその鼻歌は、普段ぼろくそに言っているお母さんがかつて歌っていたものなんでしょう。

 だからその姿は、娘たちを陰になり日向になり育ててきたお母さんの姿そのものでもある。そのシーンを見ながら、自分も親に守られて育ってきたんだなとあらためて実感しました。

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喧嘩ばかりしていた両親が離婚してホッとした

――橋口さんは郷里の長崎でどんな家庭に育ちましたか?

橋口 父親は元チンピラ、母親は水商売の女で、喧嘩ばかりしていました。年中、家のなかでガチャンとなにかが割れる音がしていたんです。子ども部屋にいても、その音が聞こえるたびにビクッとしていました。だから両親が離婚したとき、ああ、やっと別れてくれたとホッとしたのを覚えています。離婚家庭の子どもの悲しみなんてありません。

 離婚したとき、父親の側についたのは、父が建売りの家を買っていたからです。母親は気性の激しい人だったので、しょっちゅう近所の人と喧嘩して、そのたびに引っ越していました。それがずっと嫌だったんですね。自分の居場所がずっと欲しかった。

 母親に一緒に来てほしいと言われても、父親のもとに残ったのは、単に居場所を手放したくなかっただけです。なんて計算高い、情の薄い人間なんだろうと我ながら思いました。そんな家族だったけど、江口さんのシーンを見ていたら、やはり両親は自分を守ってくれていたんだなとしみじみ感じたんです。

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