今年、60歳の還暦を迎えた薬師丸ひろ子。その女優人生には数多くの“転機”があった。

 中学2年生のときに、映画『野性の証明』(1978年)で角川春樹事務所から初の専属俳優としてデビュー。映画『セーラー服と機関銃』(1981年)で主演で飾った後は、当時の芸能界としては異例の「大学受験のため1年間休業」に踏み切った。そして復帰後は、“独立”という新たな選択をして……。(全2回の後編/はじめから読む

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「芸域を広げたい。そのためにもフリーになりたい」

 玉川大学へ進学後、復帰作となった『探偵物語』(根岸吉太郎監督、1983年)は、松田優作との共演も話題を呼び、配給収入は彼女の主演映画では最高の28億円を記録する。翌1984年には前出の『メイン・テーマ』に続き『Wの悲劇』(澤井信一郎監督)が12月に公開された。

1985年、『Wの悲劇』で第27回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、涙を流す薬師丸ひろ子

『Wの悲劇』での演技は高く評価され、ブルーリボン主演女優賞にも選ばれる。その授賞式で彼女は《20歳をすぎましたし、そろそろただのアイドルではなく、いろんな傾向の作品に挑戦して、芸域を広げたい。そのためにもフリーになりたいんです》と宣言(『THE21』1985年4月号)、その言葉どおり、1985年3月26日をもって角川春樹事務所から離れた。

 薬師丸の独立をめぐっては、各芸能事務所が激しい争奪戦を繰り広げ、契約金は2億円にまでつり上がったといわれる。しかし、彼女は個人事務所を設立して完全にフリーランスとなる道を選んだ。

足を折ってもかまわないと存分にスキーを…

 角川春樹からは常々「いつ辞めてもいい。でももったいないぞ」と言われていたという。その言葉につられて7年続けてきたが、20歳になったときには、もう全然もったいなくないと思うようになっていた。『Wの悲劇』で主題歌を作曲した松任谷由実の苗場でのコンサートへ遊びにいった際、足を折ってもかまわないと存分にスキーをしたところ、すっかり心が解放されたのが、そのきっかけだった。

角川春樹氏 ©文藝春秋

《それで、人に泣けと言われて泣く人生はやめにしよう。笑えと言われて、笑う人生はもう嫌だ。泣きたいときに泣いてやる。泣き方だって私が決めるんだ、みたいなこと思って》、角川にも辞めると伝えると「わかった。でも、もったいないぞ」といういつもの言葉に続き、「やりたくなったら、またいつでも始めろよ」と送り出された(『週刊文春』2005年12月8日号)。

 それから大学卒業までに就職活動をしようかと漠然と考えていたものの、結果的に俳優を続けることになったのは、マスコミに引退かと騒がれて参ってしまったからだという。