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 当時、真珠採取と「からゆき」は日本人海外進出の“尖兵(せんぺい)”といわれた。続報は最後にこう書く。

 さらに取材すると、鳥羽はラングーンにいた時、真珠採取業と言っていたのは真っ赤なうそで、実はイギリス領インド地方を中心に、婦女誘拐を本業とする恐るべき悪漢。同人の手で誘拐されて悲惨な運命に落ちた者はおびただしく、今回東京に来たのも、さらにその魔の手を伸ばして数百人の婦女を誘拐し去ろうとする大規模な計画を抱いたためだった。たまたま勝蔵の妻・りつが苦境にあったのを見て、徳島生まれなのを利用して関西から四国地方の誘拐に当たらせようとした。とりあえず、(鳥羽は)りつを大阪に出発させた後で取り押さえられ、りつもまた大阪で捕縛されるに至ったという。

ビルマに住む日本人は男性より女性の方がはるかに多かった

 当時のビルマ(現ミャンマー)事情について、築地本願寺などで知られる建築家・伊東忠太は1902(明治35)年に旅行でラングーンを訪れた際のことを「日本人両3名(2~3人)、他に数十名の醜業婦がゐ(い)るそうである」と、驚いたように記している(「緬甸(ビルマ)旅行茶話」=『伊東忠太建築文献第5巻』(1936―1937年)所収=)。

 根本敬「ビルマ(ミャンマー)」=吉川利治編『近現代史のなかの日本と東南アジア』(1992年)所収=によれば、ビルマが1886(明治19)年にイギリス領インド帝国に併合された後の人口調査で、居住日本人は常に女性が男性をはるかに上回っていた。「男女の数の著しい不均衡は、この時期までにビルマのいくつかの都市で『からゆきさん』が働いていたことを物語っている」と同書。

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「からゆきさん」を扱ったノンフィクション『サンダカン八番娼館』(山崎朋子/文春文庫)

 事件の前々年の1911(明治44)年は男性310人、女性356人で一見不均衡が是正されたように見えるが、地方別にみると「『からゆきさん』は減るどころか、逆に増えたことが分かる」「1910年前後という時期は、ビルマで『からゆきさん』が数百人規模で活動した時だったと推測できる」と同書は言う。鳥羽嘉蔵と横田りつはそうした状況の中で動いていたのだろう。

 実はこの事件を報じたのは報知だけで、他紙には全く記事が見られない。資料も見当たらず、「毒婦」と書かれた横田りつや、「婦女誘拐の常習犯」とされた鳥羽嘉蔵がその後どうなったのか、つかむ手立てはない。ただ、この事件は珍しいものではなかった。10日後の国民新聞には、次のような記事が出ている。