年号が明治から大正に代わって1年が経とうとしている頃。人々の間には、新しい時代への期待と不安が交錯していた。報知は28日付朝刊でも「鳥羽は婦女誘拐が本業なり 毒婦の良人(夫)と語る」が見出しの続報を載せた。
府下中渋谷町、横田勝蔵の妻・りつ(49)が鳥羽嘉蔵(49)という者と共謀して大仕掛けな婦女誘拐を企て、大阪に立ち回ったところで捕縛された事件について、中渋谷の自宅を訪問したところ、勝蔵は同町字羽根沢351、神田軍紀方に同居し始めていた。しょんぼりして、訪れた記者にこう語った。
「自分もりつも徳島県生まれ。元々農商務省(現在の農水省と経産省)の養蚕技師を務め、さる(明治)40(1907)年中、清国(中国)雲南省に招かれ、5年契約で渡ったが、一昨年の大動乱以来、給料さえも支払われなかったため、いったん帰国。昨年中イギリス領ラングーンにおもむいて養蚕技師をしていたが、マラリアにかかってしばらく病床にあった間に今回の問題を起こした鳥羽嘉蔵*と懇意になった」
*鳥羽の名前が「嘉野」から「嘉蔵」に代わっているが、いきさつからみて「嘉蔵」が正しいと思われる。
「一昨年の大動乱」とは、孫文の指導で挙兵し、清王朝を倒した共和革命「辛亥革命」のこと。孫文はこの年(1913)、革命の一時挫折で日本に亡命し、連日新聞紙面で動きが報じられていた。勝蔵の話は続く。
困窮しているりつの様子を見て、鳥羽は“婦女誘拐”を持ちだした
「当時鳥羽は墺太利*で真珠採取をして相当資産があると言っていた。さる2月中に、東京に行くと言いだしたので、自分は病気のため数カ月間、りつに音信を伝えていなかったため、鳥羽の帰国を幸い、伝言を依頼した。そこで初めて(鳥羽)嘉蔵とりつは面会。当時りつは(夫である)自分からの送金がなく、非常に苦境に陥っていた。
年頃の男女3人の子どもを抱えて困窮している様子を見て、鳥羽は婦女誘拐の相談を持ち出し、1人についていくらかの謝礼を出すからと誘われ、女心のあさはかにも、その甘言に乗せられてついに恐ろしい犯罪を犯すに至ったのだと思われる。自分は先月帰国したが、りつは家におらず心配していたが、曽根崎署に身柄を押さえられたと聞いて、実に意外で驚いているところだ」
*墺太利はオーストリアのことだが、濠太剌利(オーストラリア)の誤りだろう。