「からゆき」とは元々、日本から海外への出稼ぎ者全体を指す、九州の一部で使われた言葉。それがいつからか、東南アジアなどの現地で娼婦として働いた女性の総称として定着した。その大半は、貧しい生活の中で親たちから売られた女性たちだったといわれる。一体、彼女たちはどのようにして海を渡ったのか。故郷をはるか離れた異郷の地で、何を目にしたのか――。

 文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全4回の4本目/はじめから読む)

入江たか子主演の映画「からゆきさん」の紹介記事(東京朝日)

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 1917(大正6)年のインドネシアをはじめ、各地で日本の在外公館と植民地政府の協議のすえ、「廃娼令」が出されるようになった。「からゆき」の一大拠点だったシンガポールでも1920(大正9)年10月、山崎平吉・総領事が脅迫を受けながら女性たちの追放を断行した。

「しかしながら、一片の廃娼令によって在南邦人社会の先陣を切った『からゆきさん』が、一夜にして忽然と消えたわけではない。中に帰郷した者、あるいはヨーロッパ人や富裕な華人(中国人)に連れ添った者もいたが、多くは南洋の地に留まり、さまざまな形で『営業』を続けざるを得なかった女性(密娼)の方が一般的であった」=後藤乾一『日本の南進と大東亜共栄圏』。

「密航婦」を題材にした小説がいくつも出版された

 1936年、鮫島麟太郎の小説『からゆきさん』が週刊朝日の懸賞小説に当選。この間にも「密航婦」を題材にした読み物小説がいくつも出版された。翌1937年、木村荘十二監督、入江たか子主演で映画化され、主題歌「からゆきさんの唄」も歌われた。しかし、戦時色が濃くなる中、「からゆき」の存在はやがて人々の記憶から薄れていった。

 雑誌「太陽」の創刊者で政治家の坪谷善四郎は『最近の南洋』(1917年)でマレーシア・サンダカンの墓地を訪れたときのことをこう書いている。

マレーシア・サンダカンの日本人墓地 ©時事通信社

 200坪(約660平方メートル)ばかりの日本人墓地は、100余りの墓の主が大抵女で、古きは土まんじゅうばかり、そうでなければ木の標柱に風雨に打たれて文字の定かでないものが多い。

 

 中で最も新しいのを見れば、高さ2尺(約60センチ)ばかりの細い四角の杭に「大日本廣(広)島縣(県)甲奴郡吉野村(現府中市)小塚71 只宗トヨ 行年19歳」などと書いてある。累々たるこれらの墓は、いずれも熱帯の瘴癘(しょうれい=伝染性の熱病)に触れて盛りの花を散らしたのかと思えば、心の持ち方とはいいながら、この同胞のやまとなでしこに、おもむろに同情の感が切々と湧き上がる。