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島原と天草の出身者が目立った

 東南アジアで娼婦としての日本人女性は明治の初めに現れている。そもそもは、来日した外国人の妻や「妾」として海を渡ったが、現地でトラブルが起き、日本にも帰れないまま、暮らしに困って娼婦になったともいわれる。当初目立ったのは長崎県島原地方と熊本県天草地方の出身者だった。

熊本県天草市にある天草四郎の銅像 ©文藝春秋

 この地方は1637~1638年の「島原の乱(天草四郎の乱)」によって人口が半減。幕府が他国からの移住政策を推進したため、その結果人口過剰にあえいでいた。北野典夫『天草海外発展史 下』(1985年)は、全国的に一般化していた産児の間引の風習を拒絶したからだとしている。「故郷の村には賃稼ぎの働き口もない。14~15歳ともなれば、やはり島の外へ出るほかはない」(同書)。「天草女」は当初彼女たち「からゆき」を総称する言葉だった。

 東南アジアを渡り歩き、ビルマで長く暮らした山田秀蔵は『ビルマ讀(読)本』(1942年)に書いている。「南洋の各地を歩いてまず私が驚かされたのは、至る所、いわゆる娘子軍(じょうしぐん)の発展であった。都会地は申すも愚か、どんな山間僻地に行っても、日本の商人こそ見いだされないが、娘子軍のいない所はなかった。彼(女)らは例外なく天草か島原の産である」。

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「彼女たちが日本で『娘子軍』と呼ばれるようになったのは明治30年代の初めからである」と矢野暢『「南進』の系譜』(1975年)は書く。元々は「婦人兵」「女子部隊」を表す言葉だった「娘子軍」が、海外の娼館で働く女性たちを美化して使われたのだった。

「からゆき」の主な出港地となった長崎の地元紙・長崎新聞は20回以上にわたる連載「憐むべき密航婦」を掲載

6000人の女性たちが「年に1000万ドルをの収入を得ていた」

 シンガポール領事だった藤田敏郎は「明治29~30(1896~97)年ごろ、シンガポール在留日本人は約1000人で、うち900余人は女子。その9割9分は醜業婦。その多くは誘拐された者だ」と書いている(『海外在勤四半世紀の回顧』)。

『「南進」の系譜』は「日露戦争直後の最盛期には、スマトラのメダン付近まで含めて、6000人の娘子軍が年に優に1000万ドルの収入を得ていたという」としている。当時の1ドルを現在の約25ドルとすると、約375億円ということになる。彼女たちは身を削って稼いだ金の中から日本の家族たちに送金。日清・日露戦争の際は日本のために進んで多額の献金をしたという。