1ページ目から読む
4/4ページ目

「世間一般の論者は賎業婦人の海外に出稼ぎするを見て甚だ喜ばず、この種の醜態は国の体面を汚すものなり、是非ともこれを禁止すべしとて熱心に論ずる者あり。婦人の出稼ぎは事実なれども、これがために国の体面を汚すとの立言はさらに解すべからず」(原文のまま)

 こういう書き出しの福澤諭吉の論説「人民の移住と娼婦の出稼」が、彼が主宰する「時事新報」に掲載されたのは1896(明治29)1月18日。論旨は次のようだった。

「娼婦は酒、タバコと同様、欠くことのできないもの。海外でも必要とされており、日本人の海外移住を奨励するのであれば、特に娼婦の国外進出は必要。相当の金をもうけて帰国した例もあり、決して非難すべきでなく、その出稼ぎを自由にするのは政策として必要だ」。詐欺や誘拐まがいのことや密航という犯罪も含まれていたなどの実態を見ない論ともいえそうだ。

ADVERTISEMENT

時事新報に掲載された福澤諭吉の論説

エリート層は「からゆきさん」を「国辱もの」と批判

 一方、東南アジアに派遣された外交官や会社員らエリート層は彼女たちを「国辱もの」と差別的に嫌悪し、批判した。初代シンガポール領事代理として1889(明治22)年に着任した中川恒次郎は、中国人だけでなくインド人、マレー人も日本人を軽蔑し愚弄するとし、「それはほかでもない」と理由を挙げた。

「従来当地に居住する者は、一に小売商、行商を除くほかは淫売女及び、それで生活する水夫上がりの者だけ、その行商も女をお得意さまとして出入りし、加えて、紳士や立派な商人といわれる人たちが来往の途中で足を止める。故に(住民は)日本人と見れば、必ず淫売女に関係があると思って軽蔑するものだ」=『南洋の五十年』(1938年)。

 1896(明治29)年には有志999人が衆議院に「出稼醜業者取締の請願」を提出した。救世軍の山室軍平は1904(明治37)年、仲間と欧州航路でイギリスに向かう途中、香港出発間際に船内に「白地の浴衣に細帯を締め、うちわを片手に持った28人の日本醜業婦の一隊」を見かけた。山室らは白木綿に「いんばいは日本人の恥さらし」「どんな難儀をしても正業に就け」と書き、たすきにして船内を歩いたと『社会廓清論』(1914年)に書いている。

日本救世軍の創立者の山室軍平(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 日清・日露戦争に勝利し、世界の一流国を目指していた日本政府も無視できなくなったのだろう。植民地政府に働き掛け、日本の在外公館と植民地政府の協議のすえ、1917(大正6)年のインドネシアをはじめ、各地で「廃娼令」が出されるようになった。