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3.  誘った娘を自分の家で遊ばせておき、10人か20人になると船に乗せた

4. 各地の口入屋(「桂庵」とも言った)に依頼したり、それと結託したりして娘を集める。口入屋は「下請け」の遊び人や元「酌婦」に徘徊させて、街中で子守りや女中らをつかまえ「もっとうまい仕事口がある」とささやかせた

5. 売春を拒否した娘には「自分の(めかけ)にする」と言って連れて行き、そういう娘が何人かそろったら、門司などに連れて行き、「いままでかけた金を返せ」と迫って渡航させた

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6. 協力者に出航する港の近くで夜中に放火させ、どさくさ紛れに娘たちを乗船させることも

7. 日本の「醜業婦」が問題になると、出港前の警察の監視が厳しくなったが、どこの国の船でも船員、場合によっては事務長らにわたりをつけ、警察の監視の眼をくらませた

8. 渡航後、売春を拒む娘には「かけた金を返せ」と脅して言うことを聞かせるのが常套手段だった。中には最後まで拒否して、女衒も手を焼き、口止めされて帰国した娘もいた

 上海、香港、シンガポールなどにはその世界で名を知られた女衒のボスがいたという。相当に組織化された犯罪ネットワークができていたことが分かる。

村岡伊平治の半生は、1987年に緒形拳主演で映画化もされた(「女衒 ZEGEN」DVDジャケットより)

世界各地に日本人女性が働く娼館が…

 密航も含めた女性の海外渡航は後を絶たず、各地には次々、日本人が男を相手にする娼館ができた。「からゆきの地域は、東は太平洋を越えてハワイ、アメリカ本土へ。北はウラジオストク、シベリア(ロシア)、満洲(中国東北部)、朝鮮へ。西は中国の各地へ。そして南洋の広大な地域へと渡った。すなわち香港、インドシナ、マレー半島、シャム(タイ)、そこからスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス(いずれもインドネシア)の諸島へ渡り、インドのカルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)に至り、さらにアフリカの東端に達した」(『日本女性哀史』)。

 同書によれば、1908(明治41)年に公式に確認された人数は3万791人。半数以上の1万6000人余りは満洲をはじめ中国大陸だった。村上信彦『明治女性史下巻』(1972年)は「明治年間を通じて輸出された女の数はおそらく数十万に達するであろう」と述べている。