黎明期のJリーグを牽引し、引退後もタレントとして活躍しながら日本サッカー界の向上に努めてきた、元日本代表の武田修宏(57)。

 そんな彼に、越境進学で受けたバッシング、恩師である清水東高校の監督・勝沢要の指導ぶりなどについて、話を聞いた。(全3回の2回目/3回目に続く

元日本代表の武田修宏さん ©釜谷洋史/文藝春秋

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越境進学で受けたバッシング

――静岡県立清水東高等学校には越境進学しましたが、そこまでしても入りたかったわけですよね。

武田修宏(以下、武田) 全国高等学校サッカー選手権大会で清水東高校の優勝を見て、「すげえ、絶対にここに行くんだ」と思ったんですよ。清水東高は進学校で、そこも「文武両道、かっこいい」って。

――でも、越境進学したことでバッシングが。

武田 当時は、「浜松で育ったら浜松」って考えだったから。学区を越えて清水東に行くのって、あんまりいいことではなかったんですよ。静岡は西部とか中部とか、ライバル同士で火花をちらしてたんです。浜松、清水、藤枝あたりはバチバチだったけど、それがあったから強くなっていったんでね。

 浜松から清水に行っちゃったら、浜松の人たちは、そりゃあ気分がよくないわけですよ。「浜松で育って、浜松の小学校、中学校に通ったのに、なんでライバルの清水に行くんだ」っていうね。で、新聞に学区を越えて清水東高に行く奴がいると書かれて。俺、中学3年生だったけど「新聞でもこういうこと書くんだ」って傷つきましたね。

――本来だったら、浜松のどこへ進むことに。

武田 浜松北高とか浜名高校ですね。通ってた中学校に、清水東高の勝沢(要)監督が俺に会いに来てくれたんだけど、みんなに反対されて追い返されたという。それくらい、浜松は清水をライバル視してましたからね。

――追い返すって、すごいですね。

武田 中学だけじゃなく、地元のみんなからも反対されたからね。ただ、なにか悪口を言われるとか、白い目で見られるとかは一切なくて。ただただ、清水には渡さない、という感じで反対されたんです。

 勝沢監督が中学に来た件も、最初は噂みたいな感じで聞かされたんですよ。「清水東の先生が来たけど、追い返されたらしいよ」って。それで会えなかったんだけど、勝沢監督は俺に渡してくれって色紙を置いていったんですよ。その色紙に「自信を持って逆境に勝て。厳しい環境の中で揉まれて強くなってください」って書いてあって。

――状況が状況だけに、その言葉にはグッと来ますね。

武田 それで、俺は躊躇なく清水東に行った。そのままだと越境進学になるから、家族に協力してもらって、ちゃんと清水に引っ越しましたよ。母親も働いていた浜松の病院を辞めて、清水の老人ホームに転職して。俺は清水東のOBの家に下宿して、そこから高校に通いましたね。兄貴は浜松の家に残りましたけど。