黎明期のJリーグを牽引し、引退後もタレントとして活躍しながら日本サッカー界の向上に努めてきた、元日本代表の武田修宏(57)。

 そんな彼に、過酷だった家庭環境、サッカーとの出会い、天才サッカー少年として注目されるなかでの両親の離婚などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/2回目に続く

元日本代表の武田修宏さん ©釜谷洋史/文藝春秋

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長距離トラックの運転手でギャンブル好きの父

――武田さんというと、明朗活発というイメージ。

武田修宏(以下、武田) そうだね(笑)。

――それゆえに過酷な少年時代を送っていたことに驚いたのですが、生まれも育ちも静岡県浜松市ですよね。

武田 そう、浜松で生まれて。親父が長距離トラックの運転手で、母親が看護師で、母方のおばあちゃんがいて、2つ上の兄貴がいて、自分がいるという、5人家族で育ちました。うちは元々タバコ屋で、おばあちゃんが店をやってたんですよ。

――家族構成だけ聞くと、いかにも昭和の家族って感じですね。

武田 なんだけど、親父は金遣いが荒いうえに賭け事が大好きで、借金もしていてね。

――どんなことにお金を使っていたのでしょう。

武田 平気で外車を買ったり。カマロとか乗ってましたから。とにかく派手好きで、そこは俺が思いっきり受け継いじゃって、小学校に真っ赤なジャケットを着ていったりしてましたね。

真っ赤なジャケットを着る武田さん(写真=本人提供)

 仕事はするんだけど、休みにはギャンブルに繰り出す。浜松は、ギャンブル好きな人間には誘惑が多いんですよ。で、浪費とギャンブルを重ねて、借金をしちゃうっていう。

 親父は暴力も振るう人で。いつも殴ってくるわけじゃなく、カッとなったら暴れる感じで。

両親と一緒にいる時間をあまり持てなかった

――ご両親は、仕事で忙しかったのですか。

武田 親父は長距離トラックの運転手だから、ずっと出っぱなしでしょう。親父の浪費と借金があるから、看護師だった母親は金を稼がないといけなくて、夜勤に出たり、朝早くから出勤して。親父も母親も、子どもたちと一緒にいる時間がほとんど持てない状況だったから。いわゆる、鍵っ子だよね。おばあちゃんは家にいたけど、寝たきりだったし。寝たきりになってからは、当然だけどタバコ屋もやってなかったしね。

――食事はどうしていました?

武田 母親が、家を出る時に1000円札を置いてくの。その1000円でパンを買って昼飯にしたり、残ったらおやつや晩飯に回して。あと、出前を取ったり。足りなかったら、自分でご飯を炊いたりしたし。家に小麦粉があったら、キャベツ切って、卵も入れて、お好み焼きを作って食べてたし。

 ご飯を炊いたけど、おかずになるものがない時は醤油を掛けて。それにも飽きたなと思って、試しにお酢と砂糖を入れて混ぜてみたら「これ、寿司じゃねえか!」って。「自分で寿司が作れた!」って、あの時は感動したよね。ただ、寿司と言ってもシャリだけなんだけどさ(笑)。

 たまに、母親が働いてる病院に行って、看護師さんの控室とか待合室で母親と一緒に食べたりはしてましたね。