“日本軍の自滅”としてのみとらえられがちなインパール作戦を、イギリス、インドの資料や現地取材により再検証したのが『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』(文春新書)である。本書より一部抜粋し、兵士たちの証言と共に、凄惨を極めた“地獄の撤退戦”を辿る。(全2回の前編/続きを読む)
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「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨だった撤退戦
インパールやコヒマからの撤退戦は、「白骨街道」と呼ばれるほどに凄惨なものだった。ここで、コヒマの戦いに参加した第31師団のある兵士が戦後に記した回想を紹介しよう。
「わたしたちの部隊は、『烈』兵団の指揮下にあって、インパールの後方を遮断するコヒマを占領していました。しかし、いくら待ってもインパールは落ちません。それどころか、コヒマは前方インパールと、後方リマプール〔ディマプル〕の敵軍によって挟撃されるにいたったのです。前後から敵弾が飛来するわたしたちの上に、雲が低くたれこめて、雨がやってきました。恐ろしいモンスーンがついにきたのです。ずぶ濡れの中で、糧食も、弾薬もなくなりました。下がるに下がれない雨中ですが、そうしていれば、餓死のからだを白くさらしてしまうだけ、という絶体絶命の時を迎えたのです」
「ビルマに向かって、降りつづける雨の中を、アラカン山脈四十九の山ごえが待っている敗兵の行軍です。一山こすのに一日。谷まという谷まは急流となって、ゴウゴウと音を立てています。衰弱したからだは、その流れに負けてしまうのです。食べるものはなにもありません。わたしたちが噛んでいたのは、とちゅうにはえているタケノコだけでした」
「死は死を呼ぶといいますが、わたしは目のあたりにそれを、つぎからつぎへと見ました。ひとりが倒れて息絶えると、そのそばにヨロヨロと寄って行って、ばったり倒れるのです。そのようにして、二十人、三十人と折りかさなり、水ぶくれになって、降りしきる雨にさらされている死体のかたわらを通りすぎ、何十日かののちにようやくビルマにはいりました」