北海道旭川市を本拠とする歩兵第二八連隊から抽出された一木清直大佐率いる一木支隊は、1931年の満州事変や1939年のノモンハン事件などに出動し、歴戦の精鋭部隊として知られていた。しかし、1942年の8月21日、激戦となったガダルカナル島で916人中777人が戦死するという全滅状態に陥ってしまう。

 まさに、その8月21日の夜。部隊が出発した旭川第七師団では、無表情のどす黒い顔をした部隊が帰還する姿を見たという目撃談が相次いでいた――。

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「伝統的戦法である白兵威力」に絶大な自信をもっていた一木支隊の“予想できなかった運命”

「一木支隊全滅」によると、幽霊部隊の帰還を否定した留守部隊将校もいた。しかし、師団の兵士たち、宿営していた中学生、さらには兵士の家族たちまでと、怪異譚はかなり広範に広がっている。死者たちはそれほどまでに、この世に強い思いを残していたのだろうか。

 確かに、一木支隊の運命は誰もが予想できないものだった。古賀牧人編著「近代日本戦争史事典」によれば、ガダルカナルは、オーストラリア攻略のための航空基地として適していたことから、日本海軍が1942年6月上陸。海軍設営隊が飛行場建設を進めていた。

 ところが、それを察知したアメリカ軍は海兵師団などの約1万8000人を上陸させて飛行場を占拠した。日本陸軍は飛行場設営を海軍から知らされていなかったという。さらに、当時の大本営(戦時の陸海軍統帥機関)作戦課でガダルカナルという地名を知っている参謀が1人もいなかったといわれる。

ガダルカナル島周辺図(「サンデー毎日」より)

 反攻のため選抜されたのが一木支隊だった。戦闘能力の高さが評価されていたのだろう。輸送船で帰国の途についていた一木支隊は8月9日、ラバウルの第一七軍の指揮下に入ってガダルカナルに向かうよう命令を受ける。

「このとき一木大佐は『ミッドウエーを取るべく旭川を出陣してきたが、作戦が中止となり、このままおめおめ帰れぬと思っていたところだ』と腕を撫して決意を述べたといわれる」(「旭川第七師団」)

白兵突撃の訓練(「証言記録『兵士たちの戦争』2」より)

 同書は大佐について「その歩兵戦闘に対する思想は『伝統的戦法である白兵威力による夜襲』を重視していた」「ことに歩兵第二八連隊の精鋭に対する過度の自信と、米軍兵力についての過小評価がこの時、心の中にあったことは否定すべくもない」と書く。

「戦意に乏しく、厳しい戦いになるとすぐ降参する」というアメリカ軍兵士のイメージ

 中継地トラック島での陸海軍作戦会議でも「上陸2日目の夜、銃剣突撃をもって一挙に飛行場に突入する」のを基本戦術とすることを力説したという。

一木支隊が目指した飛行場(「南太平洋陸軍作戦第1」より)

 それは一木大佐だけの考えではなかったようだ。防衛庁防衛研修所戦史室編「中部太平洋陸軍作戦第1マリアナ玉砕まで」(1967年)によると、ガダルカナルに上陸した米軍は戦意は旺盛でなく、目的は単に飛行場の破壊にあるといわれていたという。そうした見方の根本にあったのはアメリカ軍兵士の資質に対する根強い蔑視だった。