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 一木支隊が旭川を出発する直前の1942年5月10日付の北海タイムス(北海道の地元紙)に興味深い記事が載っている。

「敗れて喜ぶ米比捕虜 俺は共和黨(党)、戰(戦)争は眞平(真っ平)」の見出しで、日本軍が直前に占領したフィリピン・コレヒドール島で、捕虜になったアメリカ兵が「俺は民主党じゃねえから、ルーズベルト(当時のアメリカ大統領)のために戦争するのは反対だよ」と語り、別のアメリカ兵が「これで俺たちはアメリカへ帰れるぞ」と真顔でうれしそうに言ったと書いている。

「戦意に乏しく、厳しい戦いになるとすぐ降参する」というアメリカ軍兵士のイメージは国民の間にも刷り込まれていた。

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アメリカ軍がいかに弱いか、新聞も書き立てた(北海タイムス)

 NHK取材班「太平洋戦争 日本の敗因2 ガダルカナル 学ばざる軍隊」(1995年)によれば、8月13日、第一七軍は一木支隊に「先遣隊を編成し、とりあえず駆逐艦6隻に分乗してガダルカナルに向かえ」との作戦命令を出した。支隊を2つに分け「約半分の900人で十分」という意味。軍全体が敵を“なめて”かかっていたということだろう。

「とにかく戦争に負けるなんてことは考えてないんだから」「とにかくアメさんは、日本の軍隊と違って精神力がないから弱いと」

 NHK「戦争証言」プロジェクト「証言記録 兵士たちの戦争2」(2009年)の第3章で一木支隊の生き残りの1人は「ぱーっと行って、手柄を立ててから故郷に帰れるって簡単に考えていた。とにかく戦争に負けるなんてことは考えてないんだから」と証言。

 別の1人も「兵隊に入って、いろいろ日本軍が調査した範囲内のアメリカ兵はこうだっていう話を、概略を聞かされてね。それによると、とにかくアメさんは、日本の軍隊と違って精神力がないから弱いと。それから地上戦というのをやったことのない兵隊が多いから、とにかく大したことないんだと。いま考えてみるとね、調査不足っていうか、本当にただただ驚くだけですね。もう決めつけさ」と語っている。一木大佐が第一七軍の参謀に「(北方の)ツラギも取っていいか」と聞いたという話が残っている。

「この軽装備はいかにも戦う相手を過小評価していたと言わざるを得ない」

ガダルカナル島全図(「歴史群像」より)

 8月16日、一木支隊先遣隊はトラック島を出発。18日深夜、月明りの中をガダルカナル島中央部北岸に上陸した。後続の部隊を待たず、同島西部北岸の飛行場目指して行動を開始。20日午前、一木大佐は攻撃命令を下達したが、その要旨は「行軍即捜索即戦闘」主義だった。

 亀井宏「ドキュメント太平洋戦争全史 上」は一木支隊先遣隊の戦力について「いわば歩兵一個大隊(程度)であり、歩兵部隊の携行弾薬は各自250発、糧食は7日分に限定された」「この軽装備はいかにも戦う相手を過小評価していたと言わざるを得ない」と指摘。この段階で「大佐は米軍約2000と読んでいたともいわれている」と述べている。

 これに対しアメリカ軍は「中川(イル川の日本側の名称)左岸に一連の主戦闘陣地線を構築中で、その火力組織は濃密を極め、しかも多数の戦車が特火点となって配置されていた」(「旭川第七師団」)。