昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

77年、運命の夏

2022/08/14

 次の晩もまた次の晩も、うなだれた軍旗護衛小隊は同じ時刻に、同じ方向に向けてザァークザァークと歩いて行った。上官はもう「うそをつけ」と言わなくなった。全滅した一木支隊の幽霊が引き揚げてくるのだ。誰言うとなく第一線ではそういううわさが広がった――。

 旭川の幽霊部隊より戦争童話ふうで物悲しい。第二八連隊はその後、再編され軍旗も再び授与されるが、戦いに敗れたうえに軍旗まで失った悲しみがにじみ出ているようだ。出典は書かれていないが、たぶん人から人へ言い伝えられてきた話なのだろう。

好転しない戦局、マラリアの蔓延、そして相次ぐ餓死…その後のガダルカナル島で待ち受けていたもの

 その後のガダルカナル戦はさらに悲惨だった。飛行場確保に固執する日本軍は、川口支隊、第二師団、第三八師団と次々戦力を投入するが、装備が圧倒的に劣っていたことなどから、年を越して1943年になっても、戦局は好転しなかった。

 そこにマラリアが蔓延。さらに制空権をアメリカ軍に奪われて物資は細々とした“ネズミ輸送”に頼らざるを得なくなり、兵士はすさまじい飢餓に苦しんだ。「証言記録 兵士たちの戦争2」には生き残り兵士の声が載っている。

「ただご飯を食べたかったね。『もう銀飯(白米)腹いっぱい食べたら死んでもいい』って、そう言いながら死んだのもいましたよ、ずいぶん」「私も死のうと思ったこと何回もあるもの。もう、こんなつらい思いをするなら、いっそのこと、死んだ方がなんぼか楽だなと思ってね」……。

 読んでいると、そうした飢餓地獄を味わうことがなかった点では死者の方が幸せだったようにも思える。ガダルカナルはいつしか“飢島”と呼ばれるようになった。

ガダルカナル戦は「敵と飢(うえ)とに戦ひ(い)勝つ」と美化された(東京朝日)

「その目的を達成せるにより、同島を撤し、他に転進せしめられたり」

 結局、大本営は同島の放棄を決定。1943年2月7日まで3回にわたって駆逐艦による兵員の撤収が行われ、陸海軍将兵計1万3600人が救出された(「近代日本戦争史事典」)。

新聞には一木支隊全滅は報じられず、代わりにソロモン海戦の「勝利」が伝えられた(東京朝日)

 2月9日、大本営は次のように発表した。「掩護部隊としてソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年8月以降引き続き、上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘よく敵戦力を破砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬、同島を撤し、他に転進せしめられたり」(原文のまま現代仮名遣いに)。これを機に「撤退」を言い換えた「転進」が流行語になった。

ガダルカナル撤退は「転進」と表現された(東京朝日)

 発表では「敵に与えたる損害 人員2万5000以上」「わが方の損害 人員1万6374名」とされた。しかし、これは悪名高い「大本営発表」。

 実際には諸説あるが、「ガダルカナル 学ばざる軍隊」によれば、上陸した日本軍の総人員3万1358人のうち戦死・行方不明は2万1138人。そのうち戦闘で死亡した兵士は約5000人と推定され、残りの1万5000人以上が飢えと病に倒れたとみられる。

限界をむかえた日本兵たち…兵士たちの間で流行した“生命判断”の基準

辻政信 ©文藝春秋

 一時はガダルカナル現地にも入るなどして強気の作戦指導を行い、強い批判も浴びた大本営作戦課作戦班長の辻政信中佐(当時)は、戦後「ガダルカナル」を出版。その中で1942年12月中旬、第一七軍参謀長から来た電報の内容を記している。