1.全軍、糧秣全く尽きて既に2週間。木の葉、草の根もまた尽き、川底の水ゴケまで食い尽くしたり
2.弾薬もまたなし。各部隊将兵中、動き得る者はほとんどなく、ただ全員各自の壕に座ったまま、敵来襲に際しては、銃剣と軍刀により最後の戦いを準備しあり
3.なし得れば、空中補給をお願いいたしたし
同書は、山岳地帯にこもった日本兵の間で流行した生命判断も紹介している。
▽立つことのできる人間は…………寿命は30日間
▽体を起こして座れる人間は………3週間
▽寝たきり起きられない人間は……1週間
▽寝たまま小便をする者は…………3日間
▽ものを言わなくなった者は…………2日間
▽まばたきしなくなった者は…………明日
この生命判断は決して外れることがなかったという。
林三郎「太平洋戦争陸戦概史」(1951年)は「『ガ』島の日本軍は極めて多数の餓死者を出した。この一事によっても、この作戦が日本軍の力に余るものであったことが分かる。従って、作戦失敗の責任は、こんな作戦をしゃにむにやらせた大本営がその大部を負うべきであろう」と言い切っている。
確かにその通りだろうが、問題は「作戦失敗」という4文字の背後に膨大な兵士の生命の喪失があることだ。
「われわれは戦争に行ったんでないって。殺されに行ったんだって」
それにしても、太平洋戦争の数多い戦場の中でも、ガダルカナル戦でこうした稀有な怪異譚が生まれたのはなぜなのだろう。
考えられるのは、戦死した一木支隊の兵士のほぼ全員が、なぜ自分が死なねばならないのか、全く分からないまま命を落としたということだ。死の覚悟どころか、故郷や家族や友人らに思いを寄せる余裕もなく砲火の中でみじめに死ななければならなかった。
「証言記録『兵士たちの戦争』2」によれば、支隊生き残り兵士の一人は「やっぱりいまでも、いっぺんでいいから偉い人に聞いてみたいと思いますね。何のために私たちはあの島へやられたのか」と語る。
別の一人はこう言い切る。
「われわれは戦争に行ったんでないって。殺されに行ったんだって言うの。俺に言わせれば。戦争っていうのは、戦って初めてね、負け勝ちを決めるんだから。違うんだもん。われわれは戦ってないんだもの。とにかく悲惨だよね」
その怒りをどこにぶつけていいか分からない。そんなこの世に残した無念の思いが怪異譚を生むことにつながったのではないか。
もう1つあるとすれば、ガダルカナルが、あの戦争の性格を如実に表した戦いだったからかもしれない。
太平洋戦争の「分水嶺」と呼ばれ、それまでの日本軍の連戦連勝からアメリカ軍の反攻の前に敗戦と撤退の連続に移る転換点。日本の勝利を信じて疑わなかった国民が「何かおかしい」と思うようになった。
さらに生き残った兵士も飢餓と病苦のどん底に落ちて行く悲惨。数多くの太平洋戦争の戦場の中でも、ガダルカナルが、1944年3月に始まったインパール作戦に次いで愚かな戦いだったといわれる。
全体状況を正確に捉えようとせず、自軍の能力を過大評価し、敵をなめてかかって強気一辺倒で押す。兵力を小出しにして撤退を考えない。補給や通信・連絡を軽視する。陸軍と海軍の連携が皆無……。そして、その根底にあったのが軍人勅諭で「死は鴻毛よりも軽し」とされた根本思想。