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 この兵士は、一九六四年の東京オリンピックの女子バレーボールで「東洋の魔女」の異名をとった日本代表チームを率いて、金メダル獲得に導いた大松博文監督だ(引用部分は大松博文『おれについてこい!』pp.229-230)。

手榴弾で自決する者、ウミを垂れ流す者…地獄絵図そのままの戦場

 しかし、「白骨街道」という呼び方すら甘いという指摘もある。戦後、女性下着メーカーのワコールを創業する塚本幸一は、徴兵されて第15師団の一兵卒としてインパール作戦に参加した経験を持っている。彼も戦後に残した回想で、撤退時の様子をこう振り返っている。

「飢餓と豪雨、それに悪性のマラリア、赤痢などの疫病による悪夢のインパール退却行だった。これを後年の戦記では、『白骨街道』とか『靖国街道』とか呼んでいるが、“街道”というような生やさしいものではない。アラカン山系の道なき道を、谷から谷へ逃亡するのだ。その日本軍を敵は容赦なく追ってくる。
 

 悲惨なものである。われわれは、ただ歩いているだけである。いや、歩ける者はよい。行く道には、既に白骨になっている者、半死状態で、通り過ぎて行く戦友に何かを語りかけようとしている者。負傷した傷口からダラダラとウミを流しながら、放心状態で座っている者。もうそれは地獄絵そのままである。時折りあちらこちらの谷から、手榴弾で自らの生命を絶っている音が聞えてくる。その上、雨期はますます激しくなり、道が泥水の川となって、逃亡するわれわれを苦しめる。」(塚本幸一『塚本幸一 わが青春譜』pp.167-168)

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 彼らの回想にあるように、携行していた3週間分の食糧はとっくに尽きていた。その上、豪雨のなかを幾重にも連なる山を越えていかなくてはならなかったのである。生還できただけでも奇跡と呼ぶべきものだった。