「日本型組織の最大の失敗例」としていまだに語り継がれるインパール作戦。無敵を誇っていたはずの日本軍はどこで間違えてしまったのか。ここでは 『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』(文春新書)より抜粋。指揮官・牟田口廉也の残した言葉と共に敗因を振り返る。(全2回の後編/前編を読む)

写真はイメージカットです ©AFLO

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「英印軍は中国軍より弱い」牟田口廉也の“驕り”

 最初の成功体験に引きずられてしまったことも、その後の英印軍に対する過小評価をもたらすことになった。

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 牟田口は第18師団長だった1942年2月、シンガポール攻略で最大の要衝、ブキテマ高地の占領に成功した。英軍にとってアジアの最重要拠点だったシンガポールを陥落させた立役者は、牟田口だと言っていい。しかし問題は、そのときの経験が「英軍取るに足らず」という認識を彼に植え付けたことだった。インパール作戦発起前の時点で、牟田口はこう語っている。

「英印軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行なえば必ず退却する。補給を重視し、補給についてとやかく心配することは誤りである。マレー作戦の体験に徴しても、果敢な突進こそ戦勝の捷路である」(『戦史叢書 インパール作戦』p.153)

 牟田口は中国でもシンガポールでも戦ってきたのだから、彼なりに実感があっての発言だろう。しかし、このときからの2年間で、英印軍は大きく変貌を遂げた。1944年にインパールで相対した英印軍は、シンガポールの英軍とは別物になっていたのだ。

 この間、認識を改める機会がないわけではなかった。1943年にウィンゲートによる長駆浸透作戦が行われた際、牟田口は掃討に当たった。印緬国境を越えて日本軍の背後まで移動してきた「チンディット」を目の当たりにして、彼のビルマ防衛に対する認識が根底から覆されたことは第5章で見たとおりだ。これがきっかけで1度は棚上げされたインド北東部進攻作戦が牟田口のなかで急速に現実味を帯びていったのである。ところが、チンディット来襲は、なぜか戦う相手である肝心の英印軍に対する見方には影響を及ぼさなかったようだ。