帝京高校に入学し、1年春からベンチ入りしていた大田阿斗里は、2年夏から3季連続で甲子園に出場した。

 06年夏には智弁和歌山との12対13という壮絶な打ち合いとなった試合にも2年生ながら登板し、07年春の選抜における初戦の佐賀・小城戦では江川卓と並ぶ20三振(大会史上2位タイの記録)を奪う快投をみせた。吉岡雄二や三澤興一(共に元巨人ほか)など、右の豪腕を輩出した帝京らしい、身長188cmの大型投手だった。

「高1の頃は帝京の練習について行くことだけで精一杯でした。高2の夏に甲子園を経験してからは、スポーツ紙や専門誌で取り上げられることも多くなり、自然とプロを意識するようになりました。当時の球速は140キロ台後半だったと思います」

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©文藝春秋 撮影・橋本篤

 帝京のチームメイトには、現在も福岡ソフトバンクで活躍する同級生の中村晃に加え、1学年下に杉谷拳士(元北海道日本ハム)がいた。

「中村は1年生の頃から別格でした。帝京では打撃マシンの球速を145キロぐらいに設定して打たされるんですけど、ちょっと前まで中学生だった1年生はほとんど打ち返せないんです。だけど、中村だけは気持ちよさそうに打ち返していましたから。野球センスの塊だったと思います」

「思い残すことはないんですけど、悔しさが残る高校野球でした」

 名門・帝京でしごかれ、順調に成長していた大田の高校野球は不本意な形で終わることになる。20三振を奪った選抜の次の試合の打席で、右手にデッドボールが当たってしまう。

「右手の親指のツメが半分ぐらいなくなっちゃって……。それぐらいツメがはがれちゃうと、治りも遅いんです。親指をかばうようにボールを投げていたら、投球フォームがだんだんと崩れてしまい、以前のフォームを思い出すことができないどころか、どう投げたらいいのかさっぱりわかんなくなった。イップスに近い状態だった。完全に治ったあとも、ずっとおかしかったですから」

帝京高校時代の大田阿斗里 ©時事通信社

 右手親指のケガが野球人生を狂わせた。いつしか背番号は「1」から「10」に変更となり、最後の夏は甲子園に出場したが、1試合のみの登板で序盤にKOされて終わってしまった。

「3年間頑張れたという意味では思い残すことはないんですけど、悔しさが残る高校野球でした。不思議なもので、最後の夏が終わった瞬間から、ボールが走り出し始めました」

 親指のケガはきっかけでしかなく、大田の中に期待に応えなければならないという重圧が、投球を狂わせていたのだろう。