帝京高校からプロの世界に入り「自分は天才ではない」ことに気づかされたという大田阿斗里(34)。

 3年目に結婚して子供も生まれたが、4年目にはすでに脳裏に「戦力外」の文字がチラついていたという。

 そしてプロ最終年、マウンドでホームランを打たれて笑ってしまった“初めての心境”とは……。本人に話を聞いた。

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©文藝春秋 撮影・橋本篤

 意気揚々と乗り込んだプロの世界で洗礼を受けた太田阿斗里だったが、シーズン後半に入り一軍の機会を与えられ、先発登板も果たした。しかし、勝ち星はつかず、1年目を終えた。その後は1軍と2軍を行ったり来たりしながら、登板を重ねるも、1軍での勝利は遠かった。

 1軍初登板からの未勝利連続記録が歴代3位となる「10」にまで伸びてゆく。だが、6年目の13年にリリーフで登板した試合でついに初勝利を飾った。リリーフ登板であったため彼自身も勝利に気がつかず、周囲の仲間も「まだ勝っていなかったのか」という反応だった。

「実力でしかない。『運』の要素はなかったと思います」

 大田は「初勝利まで長かった」と話す。好投しても勝ち星につながらない不運もあったことだろう。

「いや、能力のある選手……たとえば山本由伸(現ドジャース)も高卒で入団した直後は、中継ぎや敗戦処理といった自分と同じような起用のされ方をしていましたが、キャリアを重ねて勝利して、先発の座を掴んでいったじゃないですか。自分は2軍では結果を残せても、1軍ではダメだということの繰り返しだった。初勝利まで6年もかかったのは自分の実力でしかない。『運』の要素はなかったと思います。1軍と2軍には大きな差がある。その差を埋めきることができませんでした」

 3年目に同い年の女性と結婚し、ふたりの子供に恵まれたが、プロとなって4年目の頃には「戦力外」の三文字が脳裏にチラつき始めていた。それは初勝利を飾っても変わらなかった。14年は右肩の痛みに悩まされるようになり、1軍登板がわずか3試合だった。

©文藝春秋 撮影・橋本篤

「痛みはあるけれども、投げようと思えば投げられる状態でした。トレーナーさんには伝えていましたが、球団やマスコミは知らなかったと思います。僕に限らず、誰もが何かしらのケガを抱えているものではないですか? 前の年(13年)が良かっただけに、『勝負の年』と位置づけていた自分には休むという選択肢はなかったです。もしその時に思い切って休んで、治療に専念していたら……と考えることはあります」