翌15年はとうとう1軍登板が入団して初めてゼロになった。秋口に球団からの電話が入った時には、連絡の内容を自然と察した。

「そうなって初めて、もっと野球に時間を費やすことができたんじゃないか。もっとお酒を控えておけば良かったんじゃないか。そんなことが頭をよぎりました。もっと自分に制球力があれば勝負できたかもしれない。メンタル的に浮き沈みが激しかったので、精神的にもっと強ければ、1軍で活躍できたんじゃないか。そんなことは考えてしまいます」

 15年のトライアウト参加と翌16年のテスト参加によって、大田は1年間だけオリックスに在籍した。唯一の1軍登板だった東北楽天戦のことをよく覚えている。

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©文藝春秋 撮影・橋本篤

「その時点の自分には目一杯のボールを投げて、2者連続のホームランを打たれたんです。マウンド上で、笑うなんてことは自分の野球人生では考えられないことだったんですけど、あの日の映像を見返すと笑っていたんですよね。あの瞬間、『もう引退かな』と思って、フッと力が抜けた瞬間があった。結果的にそれがプロ野球選手として最後の登板となりました」

 大田は年末年始に、母校の帝京の練習に顔を出すことを慣例にしていた。

「現役中は前田監督からも常に厳しい言葉をかけられていました。『このままで大丈夫なのか?』って。オリックスを戦力外になった時は、高校時代も含めて初めて『よくやったな』とお褒めの言葉をかけてくださいました。帝京で野球をやって、プロ野球選手になれて良かったと思いました」

「子供たちに野球をやっている姿を見せてほしい」という妻の言葉

「引退試合」となった2016年の12球団合同トライアウトから2カ月あまりの17年1月、妻からの一言によって、警視庁警察官の採用試験に臨むことを決めた。

©文藝春秋 撮影・橋本篤

「セカンドキャリアに関して、別に野球に携わる考えはありませんでした。というか、正直、引退を決めた直後のことって、あんまり記憶がないんです。覚えているのは妻の言葉ぐらい。まだ幼い子供たちのことを考えて、『警視庁でも野球をやって、子供たちに野球をやっている姿を見せてほしい』と。もちろん、公務員になれば生活が安定することも警察官を希望した理由のひとつでした」

 当時、大田は27歳だった。元プロ野球選手だからといって、合格が保証されるわけでもなければ、採点が優遇されるようなこともない。一般の受験生と立場は同じだ。

「採用試験にはいろいろな科目があり、憲法に関する科目や公務員特有の判断推理や数的処理といったものもあった。専門の予備校などもあるんですけど、お金がかかるので、今後の事を考えて独学で準備しました。1日、8時間ぐらい机に向かったことなんて人生で初めて。母親は僕が警察官を目指すことに驚いていました」