『約束』(デイモン・ガルガット 著/宇佐川晶子 訳)早川書房

 アパルトヘイト。アフリカ大陸最南端に位置する国、南アフリカ共和国において1948年から1994年まで実施された、白人による有色人種への人種隔離政策だ。この政策における白人とは、主に17世紀に入植したオランダ系移民の子孫であるアフリカ生まれの白人たち、アフリカーナーを指す。有色人種、すなわち黒人は土地の所有権を否定され、居住区を隔離され、教育や賃金、公共施設の利用等、生活のあらゆる場面で差別され、搾取されながら暮らしていた。

 物語はアパルトヘイト政策下の1980年代、南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリアで農場を営む白人のスワート一家の母・レイチェルの病死から始まる。

 レイチェルは亡くなる2週間前、献身的な看病を行ってくれた黒人メイドのサロメについて、「なにかあげたいと心から思っている」と農場主である夫のマニに訴えた。「約束して」という妻の訴えにマニは「約束する」と答え、その夫婦のやりとりの一部始終を、末娘のアモールが見ていた。

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 この「約束」。レイチェルの死後にアモールが家族の前で発言したものの、マニが「約束などしなかった」と否定し、途端に現実味を失った約束が、薄い煙のようにスワート一家の周囲を漂い続ける。年月が経ち、アパルトヘイトが廃止され、子供たちが大人になり、それでも約束は履行されない。――なぜか?

 まるで成されることを待つ約束が視点を獲得し、人間を観察しているみたいに、物語は激動の時代を生きる一家の人生の起伏を細やかになぞっていく。一家の父親で、妻との間に深刻な宗教的断絶を経験したマニ。女性を撃ち殺し軍隊から逃げ出した長男のアントン。自身の美貌に固執し、他者からの愛を求め続ける長女のアストリッド。無口で大人しく、それ故に家族の誰からも軽んじられている末娘のアモール。そして一家の周囲の人々。

 多くの人生を通じて浮き彫りになるのは、人間が存在の根本に持つ、脈絡のなさと虚ろさだ。分別のある行動を起こさない。正しい行動だとわかっていても、実行しない。あなただってそうだろう? と著者が問いかける声が聞こえてくるようだ。ついには、か細い約束なんて、成されることの方が奇妙に思えてくる。

 ただ、この世には一つの物事を成す人と、成さない人がいる。そんなシンプルな事象を、物語はまっすぐに突き出す。成したところで誰も褒めてはくれない。けれど、成した人生と成さなかった人生には、雷に打たれるか否かほどの隔たりがある。その眩い落雷を、読者は目撃する。

 これは過去の物語でも、遠い国の物語でもない。なにかを成したいと望みながら迷走し、錯乱しながら生きている私やあなたの物語だ。

Damon Galgut/1963年、南アフリカ・プレトリア生まれ。小説家、劇作家。第9作となる本書が2021年のブッカー賞を受賞。ナディン・ゴーディマー、J・M・クッツェーにつづく、南アフリカ出身の作家で3番目のブッカー賞受賞者となった。
 

あやせまる/1986年、千葉県生まれ。2017年『くちなし』で、21年『新しい星』で直木賞候補に。近刊『なんどでも生まれる』。