本作に当たって、永瀬のなかにはどういった演技プランがあったのだろうか。

「そうですね……そもそも最近はあまりプランニングしないんですよ(笑)。いや、もちろん役者として、今回はとくに27年間の思いがありますから、自分のなかに『わたし』像はあるんです。でも、それだけ持っていっても、楽しくならない気がしていて」

 その言葉には、役者・永瀬正敏の映画づくりへの考え方が見て取れる。

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©撮影 杉山拓也/文藝春秋

「映画の現場は、監督や照明さん、衣装さん、役者といった参加するそれぞれの人たちが持つ世界があって、みんな一緒にひとつの銀河のようなものを作っている感覚なんです。僕はその銀河の中で動いたほうが画面が面白くなると思う。だから、自分の考えをできるかぎりゼロというか、フラットな感覚にして現場へ向かうようにしているんですよね」

自分の150%を出さないと、石井岳龍の世界には近づけない

 その感覚は、本作においても同じだった。たとえば、ニセ医者役の浅野忠信とのスリリングな演技についても、こう語る。

「撮影の合間に浅野くんと話をするのは、役柄の話ではなく、くだらない話ばかり(笑)。彼の演技を先に知ってしまうより、一緒にカメラの前に立ってみて『そうきたか!』と対峙するほうが面白いんですよ」

 現場の空気から、演技が生まれる。それは石井岳龍監督の作品であることも大きいだろう。

©撮影 杉山拓也/文藝春秋

「それは浅野くんと話していて一致するんですが、石井監督の現場は自分のなかで考え得る100%を現場で出してもダメなんです。120、いや150%を出さないといけない。自分の想像以上のものを出さなければ、監督の世界になかなか近づけないですから」

 そう言って、永瀬は石井監督の『蜜のあわれ』(16年)での思い出を語る。永瀬は、少女に姿を変える金魚と老作家の関係を見つめる金魚売りの役である。

「最初に現場へ入った日、監督が僕にひとこと『今回は仏様の役なんだよね』と言うんです。一瞬『えっ?』となりますよね。この自分の考えを超えたひとことが、芝居のスタートラインになるので、自分の想像が100だとしたら、役者はそれを超える150%を出さなければならない。だから、必然的に現場全体の熱量が高まるんですよね。今回の『わたし』も、ニセ医者も、軍医も、葉子も、少なくとも役者の想像以上のものが引き出されているのは、そういう力がはたらいているからだと思います」