辻は他地域と違うメイミョウの空気を目の当たりにし、空気の一新を決意したという。辻の記述は引用に注意が必要だが、この記述の初出は1950年でメイミョウの異様さを指摘するものとしては最古に属する。辻以外にもメイミョウの浮ついた空気を指摘する記述は多く、またそれに辻が不満を公言していたのも、同時期の軍人の記述で確認できる。
慰安婦調達の作戦は電光石火だった
こうしたメイミョウの空気を醸成した第15軍について、辻は「敵の反抗もないままに各兵団とも居住、慰安の設備に貴重な二年を空費したらしい」と手厳しい。実際、ビルマを制圧してからインパール作戦までの2年間で、牟田口中将が慰安施設の整備に他の司令官より注力していたことを窺わせる証言があった。
民間の慰安所経営者が慰安婦を連れてラングーン港に着くと、菊兵団(第18師団の通称。第15軍司令になる前の牟田口中将が師団長を務めていた)の橋本参謀が待ち構えており、「師団司令部に連れていく」と有無を言わせず日本人慰安婦を連れ去っていった証言が残っている(西野瑠美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店)。
当時、慰安婦について不文律のランク付けがあり、一番が日本人、次に朝鮮人、中国人ときて、最後に現地人がくるというものがあった。つまり、はるばるラングーンまでやってきた橋本参謀が、一番価値が高い慰安婦を連れ去ったのだ。橋本参謀は牟田口中将のお気に入りとして知られており、牟田口中将の意志を受けて慰安婦調達にラングーンまでやってきたと見るべきだろう。他の部隊に先んじた電光石火の作戦である。
ここまで示したように、牟田口中将の醜聞に関しては、複数の証言から裏付けられるものも多い。しかし、彼だけに、そして彼が指揮した第15軍だけに問題があったのだろうか。後編では、第15軍の上位部隊であるビルマ方面軍全体に視野を広げてみよう。