『サイバースペースの地政学』(小宮山功一朗・小泉悠 著)ハヤカワ新書

 親のパソコンをこっそり使ってインターネットにアクセスし、ブラクラを踏まないように気を付けながら、おもしろフラッシュを楽しむ。まだ学校と家庭しか知らない子供が、親の目を盗んでこっそりとネットの世界に漕ぎ出していく。僕は1994年生まれだが、おそらくこの世代の人間の多くは、似たような形でネットの世界との「ファーストコンタクト」を果たしているはずだ。

『GHOST IN THE SHELL』の劇中、草薙素子は沈む体を抱えてダイビングを行う。そのシーンに象徴されるように、僕たちはネットの世界、サイバースペースに対して、広大さと自由さを併せ持つ「海」のような印象を持っているように思う。しかしながら、現実の海は、決して自由な空間ではない。各国は領海を定め、シビアに漁業権や資源を奪い合う。海底には無数の通信ケーブルが張り巡らされ、戦時には攻撃の対象にもなり得る。それらを陸に上げるためのスポットは限定的で、全ての土地が均一にその恩恵を受けられるわけではない。そして、僕たちがよく知る「広大な」サイバースペースは、そのケーブルのなかに存在している。さて、その空間は本当に自由なのだろうか?

 本書の題名にある「地政学」は、地理的な条件をもとに、政治や軍事、国家間の関係性について分析する学問のことだ。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃を機により一層注目されるようになった、ある種のバズワードと言っても過言ではないだろう。地理的という言葉と、自由に泳ぎ回ることが可能なサイバースペースは、一見すると無縁に感じられるかも知れないが、サイバースペースが「真に」仮想上の空間ではなく、そこでやり取りされるデータを集積するデータセンターや、通信に必要不可欠なケーブルの存在によって成り立っている以上、サイバースペースもまた、「強い地理的制約の下にある」のだ。本書では、それぞれロシアの軍事とサイバーセキュリティを専門とする両名が、大型データセンターが置かれている千葉ニュータウンや北海道の石狩、海底ケーブル陸上げの遺構がある長崎市、果てはエストニアまで足を運び、サイバースペースの「手触り」を得るべく綿密な調査を行う。

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『ニューロマンサー』のケイスが、自由を取り戻すための代償として隷属を強いられるように、あるいは、草薙素子が自身の存在にまつわる何ひとつを(そのゴーストさえ)所有していなかったように、かつて僕たちが憧れた、存分に自由を謳歌できると思い込んでいた空間は、その実、はじめから、従来のパワーバランスを拡張する装置でしかなかったのかも知れない。僕たちは、そんなディストピアのなかで、一体どうすれば溺れずに済むのか。その答え(あるいは、刺激的なレッドピル)は、本書のなかにある。

こみやまこういちろう/一般社団法人JPCERTコーディネーションセンター国際部部長として、サイバーセキュリティインシデントへの対応業務にあたる。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。
 

こいずみゆう/東京大学先端科学技術研究センター(国際安全保障構想分野)准教授。専門はロシアの軍事・安全保障。近刊に『オホーツク核要塞』など。
 

おぎどうあきら/1994年生まれ。作家。近刊『不夜島(ナイトランド)』が日本推理作家協会賞を受賞。