本書は「新田テック建装」に勤める波多(はた)が、同じ課にいる同僚の妻鹿(めが)と、そして「バリ」に肉薄する物語である。
「バリ」とは「バリエーションルート」を指す。一般に「通常の登山道でない道を行く」バリは、その難易度と自由度と達成度の高さから、ある一定の支持を集める登山ルートだ。社内の登山サークルには参加しないのに、毎週末ひとりで六甲山に登る妻鹿も、このバリを愛好する者の一人だった。
波多は妻鹿のバリ山行を知って、次第に同人に興味を持つようになる。あえて正規のルートを外れるバリは、賛否両論の行為でもあって、いたずらに危険を冒しに行くその山行を「マナー違反」とする向きもある。しかし、だからこそではないが、波多は妻鹿の毎週末のバリっぷりを、こっそりとアプリで追うようになる。
「私は営業成績を出すことにかまけ、面倒な社内の付き合いを一切絶っていた」と、リストラ候補に挙がった前職を振り返る波多は、いまの会社に転職してからも、そうした「つきあいごと」との距離を計りかねている。まことしやかに「人員整理」の噂も出る中、妻子とともに社宅に住む波多にとって「会社の人とうまくやること」は、死活問題であった。
そんな中、波多は妻鹿に誘いをかけて、バリ山行に出かける。自らの意志でバリデビューを果たした波多であるが、その道行きは苦難に満ちたものになる。道中、妻鹿はことあるごとに「本物」だと語りかけ、そんな妻鹿の「酔った」物言いを、波多は現実逃避と感じる。事実、妻鹿は社内が荒れる中、依然として誰とも徒党を組まず「俺は自分のことをやるだけ」と、悠然と言ってのける。そんな妻鹿の姿は波多の胸に、不思議か、嫉妬か、それとも憧憬か、そうした通常の同僚同士の域を超えた、ある種の熱量を生み出していく。
正規のルートがよしとされるのは、山も会社も世間も同じだろう。いっぽう、そこから外れる道にも、私たちはときとして足を踏み入れなければならない。妻鹿とともに、いちどルートを外れた波多が、妻鹿を理解したいと願ったときに、その脚の向かう先は、やはりバリの道なき道だった。しかし、そうして「外れた」波多が、一歩ごとに考えるのは、やはり「街」にある不安のことで、雲行きの怪しい会社のことで、同僚に対する自責の念で、どれだけ極端に場所を変えてみても、現実逃避なんてそうそうできず、市井に生きる人間の頭が、そう機械のようには切り替わらないところに、本書の最も強い印象を受けた。
正規のルートを外れる者には、いつだって、そこはかとない引力がある。妻鹿の「外れっぷり」はさることながら、そんな同僚に引かれる波多のそれからも、私たちは目を離せない。
まつながけーさんぞう/1980年茨城県生まれ。兵庫県西宮市在住。関西学院大学文学部卒。2021年「カメオ」が群像新人文学賞優秀作となる。第2作となる本作で第171回芥川賞を受賞。
いしだかほ/1991年埼玉県生まれ。作家。著書に『我が友、スミス』『ケチる貴方』『黄金比の縁』『我が手の太陽』。