でも、デイサービスなどでは本人の希望を聞いて、下の名前で呼ぶことがある。

 うちの母も、入院中、看護師たちに「ちゃん」づけで呼ばれて喜んでいた。

 私は、女性利用者は下の名前に「さん」づけで呼ぶことが多い。認知症の人は、数回行っても、初めてと思われることがある。だけど、下の名前で親しげに呼びかけると、「以前にも会ったことがあるかも」と思ってもらえる。

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 男性の場合、下の名前で呼ぶのは抵抗があり、姓で呼んでいる。だけど、赤名さんの下の名前が面白い。

「べ、べんいちろう、さん?」

「つとむいちろう、だ」

 赤名さんは、この名前をつけた親を恨んでいる。友人知人は赤名さんのことをアカナベと呼ぶらしい。

 赤名さんの部屋は、市営アパートで、市営の中でもとくにボロで、市としてはいずれ取り壊したいので、空き部屋に新たな住民を入れないし、修繕もしない。

 そのせいか家賃は1万円を切っている。赤名さんの部屋にはエアコンもない。それでも食べ物にはお金を使っている。

「ここにセクハラじいさんがいまーす」

 ある日、料理はいいので弁当を買ってこいと連絡があった。

 私が買っていった弁当を食べながら言う。

「おいしいものが食べたいのに、何を食べてもおいしくなくなってる。あんたが口移しで食べさせてくれたらおいしゅうなるかも」

「おまわりさーん、ここにセクハラじいさんがいまーす」

 おどけてそう言うと、赤名さんはおかしそうに笑いながら、半分かじった唐揚げを私の口に持ってきた。

 ええいっ! 潔癖症の私がそれを食べた。断ればきっとぐずぐずと文句を言う。

 それを聞くのも、行動を諭すのも面倒だった。咀嚼もしないで飲み込んだ。赤名さんは笑わず、あごで押し入れを指した。

「あそこ。開けろ」

 見ると大きな箱がある。

「持って帰れ」

「なんですか」

「圧力鍋だ。わしのと同じの」

写真はイメージ ©getty

 ヘルパーは利用者からものをもらうことはできない。いや、実際は少しならもらうが、これは高額すぎる。バレなければいいけど、赤名さん、口軽いかもしれないし。それにどうせもらうなら、家電ショップにある有名メーカーのがいいんですけど。

「うちにあるのと同じだから、わしはいらん。もう返品もできんし、あんたがこれで調理がうまくなったら、わしも助かるし」

 結局、もらうことにした。私はそれから赤名さんをアカナベと呼ぶことにした。