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こち亀でもおなじみの亀有公園の脇を抜けていくと…

 そんな商業ゾーンから東へ、こち亀でもおなじみ亀有公園の脇を抜けてゆくと、ほどなく南北に走る環七通りにぶつかる。

 さすが天下の環状七号線、クルマ通りはひっきりなしで、大きなトラックなんかもバンバン走る。このあたりまで来ればマンションも目立ちはじめ、商業エリアというよりは住宅地の趣が強くなってくる。

 環七通りを少し北に歩くと、すぐに葛飾区から出て足立区へ。実は亀有駅は葛飾区の北の端。駅の北側の商業エリア一帯は葛飾区内だが、足立区との区境が迫っていて、少し歩いただけで足立区に入ってしまう。ただ、町並みの本質は区境を跨いでも変わることはなく、同じような町が続いてゆく。

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 環七通りから環七南通りと名付けられた道筋を右に折れると、小学校の前を通った先に見えてくるのが都立中川公園だ。なかなか立派な公園で、真夏の草むす草原が茫洋と広がっている。

この一帯、もともとは日立製作所の工場があった

 この中川公園、もとを辿ると日立製作所亀有工場があった一帯だ。工場までは亀有駅から引き込み線も分かれていたという。引き込み線の痕跡はほとんど消えて住宅地の中に埋没してしまったが、それでも線路際にはそれらしいカーブの路地が残っている。

 いまでこそ、賑やかな下町の商業地というイメージが定着している亀有だが、ひと昔前までは商業地というよりは工業地帯といったほうがふさわしい町だった。

 駅の北、中川公園一帯にあった日立製作所しかり、駅の南側の中川近くには日本紙業の工場もあった。さらに中川を渡った向こうには三菱製紙中川工場。

 そのほかにも、これらの大工場を取り囲むようにして中小の工場がひしめいていた。セルロイド人形などの玩具製造も盛んだったという。下町の商業地ではなく、むしろ下町の工業地帯。それがひと昔前の亀有の姿だったようだ。

 

なぜ東京の東の端にこんなに工場が…?

 亀有が本格的に工業地帯になったのは、大正時代以後のことだ。それ以前の亀有は、むしろ郊外の田園地帯というほうがふさわしい。

 古くは亀無と呼ばれ、縁起が悪いとして亀有に改称したという話も伝わりつつ、古い地図を見れば駅の北側一帯には長右衛門新田という地名が見える。亀有駅は1897年に開業しているが、その当時は田んぼの中の駅だったのだろう。