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 その頃の亀有周辺の市街地というと、駅の南側を東西に走っていた水戸街道沿いだ。江戸時代まで水戸街道は中川を渡し舟で越えていた。その先、中川対岸には新宿町というそこそこ規模の大きな町があった。

 真偽のほどは不明だが、常磐線はもともと亀有ではなく新宿町に駅を置く計画だったとか。ただ、地元の反対などもあって亀有駅が生まれたという。

 こうしたエピソードは日本中あちこちに伝わっているが、確証のあるものは少ない。亀有がどうだったのかはわからないが、間違いないのは水戸街道の北、少し街道沿いから外れたところに駅ができたということだ。

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 駅が開業してからもしばらくは田園地帯だった亀有駅周辺。それが工業地帯に変わり始めたのは、大正時代の終わり頃からだ。

 1923年の関東大震災以後、被害が少なかった(というよりは建物が少なかった)亀有周辺に大工場が並びだし、急速に工業地帯化が進んでいった。

工場の町が「下町風情の色濃い町」になるまで

 大きな工場ができればそこで働く人もいる。日立製作所などは、実に2万人以上もの従業員を抱えていた時期があったという。そうなれば、彼らが飲み食いをするような商業エリアも形成される。

 1930年には駅の南口から水戸街道方面に通じる亀有銀座通りが形作られ、飲食店や映画館なども誕生。巨大工場に付随する歓楽街のような形で発展していった。なんでも、戦時中にはより都心に近い玉ノ井の遊郭も亀有に疎開してきたという。

 

 商業地としての発展は戦後さらに加速する。戦災の被害の度合いが小さく、それでいて常磐線で都心に一本という利便性。それが評価されてか、主に台東区や墨田区といった下町エリアの人々が亀有駅周辺に移り住むようになったという。

 そこに戦後の人口急増が加わって、亀有駅周辺は大発展。工場に紐付いていた駅周辺の繁華街はそのまま住宅地の中の商店街となり、“下町風情の色濃い町・亀有”が作られていった。亀有の“商業地”としてのイメージは、こうして固まったのである。