明治時代、多くの農家は貧しく、困窮すれば、娘を奉公に出したり女郎屋に売ったりするしかなかった。売春の歴史について取材する毎日新聞記者の牧野宏美さんは「当時、海外に渡って売春をする女性たちは“からゆきさん”と呼ばれていた。シンガポールへ渡ったある女性は、12時間にも及ぶ録音テープを遺し、戦前・戦中の激動の人生について語っていた」という――。

※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。

サイゴン在住のからゆきさん(1910年ごろのポストカード、カラーは着色)(写真=生活情報センター『100年前の日本』より/D-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

120年前、16歳のときに長崎からシンガポールに密航した女性

春代(仮名)がシンガポールに向かったのは16歳の時だった。生前、録音されたテープには、シンガポールへ行くまでの経緯や、密航した船のなかの様子、娼館での労働環境、娼館を出た後の生活などが島原の方言で詳細に語られている。テープの内容を基に作った『戯曲 珈琲とバナナとウィスキー ~宮﨑康平、からゆきさんの話を聞く~』(内嶋善之助作、2019年)や、嶽本新奈氏(お茶の水女子大学ジェンダー研究所特任講師)の学会発表資料「シンガポール・マレーシア半島における日本人女性の経験――ある『からゆきさん』の生涯をてがかりに」(2020年)、上記資料と内嶋さんや嶽本氏への取材などから、以下、春代の言葉を伝える。

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〈私の父は神経症でしたから働けんでねえ……〉。

貧しかった。家族は父、母、妹ふたり、弟ひとりの6人。父は神経症〔精神性疾患〕のため働けず、春代は10代前半から奉公に出され、島原の揚屋(あげや)〔遊女を呼んで遊興する店〕で下働きをしていた。

16歳の時に母親が死亡すると、家計を支えるのは春代ただ1人に。揚屋の給金では到底足りない。そんな時、銭湯で見知らぬ高齢女性から、「高い給金が出る。遠いところに行かないか」と誘われ、外国行きを決意する。

密航船で暴行されないように汚物を顔に塗り、身を守った

春代が斡旋する女銜(ぜげん)と呼ばれる男性たちの手引きで、シンガポールに密航したのは1904年。日露戦争開戦の年だ。