歴史的劇作家の共通点
松岡 「日本のシェイクスピア」と言われる近松だけれど、共通点がいくつもあるなとこの小説を読んで改めて感じました。
たとえば、芝居が当たって作品が本として出版され始めますよね。最初は作者の名前は入れず。でも、名前が売れるにつれて「近松門左衛門」とクレジットされるようになる。
松井 さらに人気が出ると、近松が書いていないものまで「近松」と入ってしまうんですけれど(笑)。
松岡 それ、シェイクスピアも同じなの。
松井 えっ、そうなんですか?
松岡 「ウィリアム・シェイクスピア」という名前が本に入るようになったのは一五九二年あたりからなんですね。それまでも彼の本は出ていたけれどノン・クレジットだった。そのうち、シェイクスピアにすごく人気が出てくると作者名と共に、どこそこの劇場で何度も上演された、というような謳い文句も表紙に入るようになる。
松井 作家が立ってくるんだ。
松岡 するとこれまた近松同様、シェイクスピアの筆は全く入っていない、あるいは部分的にしか入っていないものなのに「シェイクスピア作」なんて名前を入れた本が出てきちゃう。シェイクスピアの場合は、後世の研究を経て「シェイクスピア外典(アポクリフア)」として現在も読むことができるのだけれど。
シェイクスピアを含め、当時の劇作家たちには自分が作ったんだという作家意識はなかったと思うんですね。でも名前が売れてくると、書き手自身に作家としての自負みたいなものが生まれて来るのは近松と同じだなあと思いましたね。
松井 近松が日本で「作者の氏神」と言われる所以(ゆえん)ですよね。
松岡 松井さんの小説で知ったんですけれど、近松の業績は「初めて尽くし」だったんですね。
松井 市井の人々のドラマを描いた世話浄瑠璃を確立したのも近松が最初です。
近松以前にも歌舞伎では切狂言といって、舞台の最後にニュース性を持った短い演目を上演する例はあったんです。
松岡 今でいうワイドショーのような。
松井 まさに。近松はそれらを『曽根崎心中』のように浄瑠璃の物語として仕立てようと考えた。『曽根崎心中』は近松のキャリアにとっても、浄瑠璃の歴史にとってもとてもエポックメイキングな作品と言えますよね。それまでの浄瑠璃は英雄とお姫様との恋愛譚が基本形でしたが、『曽根崎心中』は徹底したリアリズムを基礎とした作品で画期的でした。
松岡 近松が「日本のシェイクスピア」といわれることには私も異論はありません。ただ、シェイクスピアと違うのは、いわゆる世話物のような庶民を主人公にした悲劇を確立したという点で、世界の演劇史においても特異な存在だと言われているんです。シェイクスピアにも庶民を主人公にした作品はありますけれど、すべて喜劇。悲劇で描かれるのは必ずある階級以上の人で、庶民は主人公にはならない。
シェイクスピアの時代から少しあとに、王侯貴族ではなく、普通の家庭の女性を主人公にした『親切で殺された女』という戯曲が誕生して、これにはわざわざ家庭悲劇(ドメステイツク・トラジデイ)と銘打たれた。それくらい珍しいもので、結局当時は定着しなかった。
日本で『曽根崎心中』や『女殺油地獄』のような庶民の悲劇があの時代にたくさん作られ、しかも大衆に受けたというのは特筆すべきことだと思います。