1ページ目から読む
3/3ページ目

 千葉 なるほど、混合しているんですね。

 濱口 完全に切り替えることはできないから、だんだん混合していく。でも、そこにはある種、諦めがあるんです。自分にはこういうものしか撮れない。映画は本質的に視覚芸術で、視覚から発想するのが望ましいとは思っても、セリフを書くことのほうが得意だった。得意だったというか、そういうふうにしか発想が出てこなかった。だから、どんどんそっちに逃げちゃう。逃げちゃうというか、そっちに力が逃げていく。

濱口流映画制作――対話から生まれる

 千葉 ここで、作り方の話を聞いてみたいと思います。映画は脚本、プロットがあると考えると、それは散文じゃないですか。だけど、どういう画が欲しいとかはあるでしょう。あと、音がある。なので、どうやって作っていくのかなと思うんです。僕が小説を書くときは、言葉なわけです。最初はメモ。僕はアウトライン・プロセッサを使うことも多くて、写真資料とかはそんなに使わない。だけど、今、セリフを書くのが得意って言ったじゃないですか。だとしたら基本は文章、しかもセリフからなんですか?

ADVERTISEMENT

 濱口 そうだと思います。誰かと誰かが話している情景は、思いつくことができる。

 千葉 会話なの?

 濱口 そう。誰か一人が滔々と喋るというよりも、誰かと誰かが喋っていて、話すにつれて何かが発展していくというのは、書けた。視覚的には全く面白くない可能性があるけれども、ただ、そこには話す人が確かにいる。実生活でも単純にそこに人がいて何かをしていて、それをカメラで撮っていれば、映画には一応なるわけですよね。大学時代に友人たちと出会って、言葉の力を知るわけです。

 そういう友人たちと話しているときに、今ここにカメラがあってくれたら、特にスペクタクルのないファミレスの深夜だけど、きっと強度のある映画になるに違いない、という気持ちになる体験をたくさんした。それでもう自分はこれしかできないんだから、これでやっていこうと。

 今にして思えば会話を書いているのは、結局のところ、話者の身体を想像しているということで、まったく視覚的ではない、というわけではなかったとも思う。そうして話者の「身体」を撮るのにシフトをしていく。そういうふうにだんだんと変わりながら映画を作っていった自分がいるので、これぞ映画であるような映画と、そうでないものの架け橋になったらいいなとは思っているかな。と言ったけど、別に狙ってそうできるものでもなくて、『勉強の哲学』には「身体がついやってしまう」享楽について書かれていますけど、自分はそういうふうにしかつくれないのだから、それを楽しんでくれる人がいたらラッキーと思ってやっている感じです。