『センスの哲学』(千葉雅也 著)文藝春秋

 センスという言葉は広義の芸術というか、表現活動をする者にとってお守りみたいなところがあるんじゃないかと思う。自分にはセンスがあると心のどこかで信じていないと、作品をつくるときに必要な無数の判断、その多くは自分でも理由をうまく説明できない直感的なものだけれど、そうした判断を次々と下していくのはむずかしい。お守りだからこそ、中身を開けて確かめてしまったらご利益が消えてしまうようにも感じるかもしれない。センスとはいったい何なのか、曖昧にしたまま我々は自分のなけなしのセンスにすがるのだし、他人のぴかぴかのセンスのよさを目の当たりにして嫉妬にかられる。お守りであることが反転して一種の呪いとして「もしかして私には致命的にセンスが欠けているのでは?」そう心に重くのしかかってくることだってあるだろう。

 本書ではセンスという語の持つこうした抑圧的な顔つきが一冊をかけて軽やかに書き換えられている。センスとは「ものごとをリズムとして捉えること」だと著者はいう。リズムとは意味の手前にあるものであり、事物の具体的な形や色や響きがつくりだすうねりとビートのことだ。創作も鑑賞もそうした具体的なものを無視してはありえないが、一般にそのことが言葉にされることは少なくて、作者が作品に込めた深遠な意味やメッセージを読み取ることが鑑賞なのだと、受け手だけでなくつくり手側の多くも信じてしまっているふしがある。どんなジャンルの入口にも威圧的な門番のような存在が立ちはだかって、初心者を徒に萎縮させているものだ。本書の「リズム」というキーワードはいわば、いかつい門番の目の届かない裏門というか、全ジャンルに共通する風通しのいい出入口へ読者をみちびいてくれる。初心者やライトな鑑賞者のみならず、創作をしている人、目利きであることを自負する鑑賞者にこそ本書は読まれるべきだと思うが、すでに大いに話題になっている本だから、そういう人の中にはかえって手に取るのを敬遠してしまう人がいるかもしれない。しかし作品とのっぴきならない関係をむすんでいる人にこそ本書の内容は“刺さる”はずだ。創作をしていれば必ずぶちあたる行き止まりの岩のようなものを、爆破したり飛び越える幻覚を見せるのではなく、回り込むチートを指南するのでもなく、巨大な岩に見えているものが実は隙間だらけの小さな石の集まりであることを、解像度の高い平易な言葉で教えてくれる。あかるくて怖くない、けれど読み手の目を真っ直ぐに見て語りかけてくれる。

 余談だけれど、『センスの哲学』というタイトルを持つ書籍の著者の名前が「千」という文字から始まっていること、この場に決して音として響くことがないがゆえにうつくしいこの〈頭韻〉もまた、読み取られるべきひとつの「リズム」の話なのではないかと思う。

ちばまさや/1978年、栃木県生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。『動きすぎてはいけない』、『勉強の哲学』、『デッドライン』(野間文芸新人賞)、『オーバーヒート』(所収の「マジックミラー」は川端康成文学賞受賞)、『現代思想入門』(新書大賞)など著書多数。
 

あがつまとしき/1968年、神奈川県生まれ。歌集『カメラは光ることをやめて触った』、共著『起きられない朝のための短歌入門』。