千葉 それは、発売されたばかりの著作、『他なる映画と 1』の一番最初に書いてありますよね。
濱口 そうです、「映画の、ショットについて」でも書いていますね。
リサーチの情報量とその限界
濱口 『勉強の哲学』で、アイロニーとユーモアと享楽的なこだわりを三すくみで葛藤させていく、という図式があったと思うんですけど、それに近いというか、リサーチはやっぱり現実ですごく情報量が多い。ものすごく役に立つものなんです。自分の中にそれが落とし込まれていって、かなり直接的に作品に反映することができる。ただ、リサーチには限界があって。一つは、それが本当に必要なものなのかどうか分からないまま、横すべりしていく傾向があるっていうことなんです。
千葉 結局、何を見つけに行ってるのかが分からなくなると。
濱口 あれもこれも見つかりましたけど、それが何に使えるか分からない。プラス、これは関係性にもよるんだけれども、人のプライベートってそんなに聞いちゃいけないわけです。人間生活の重要な部分を、簡単に掘り下げられはしない。もし聞くんなら、ある種の覚悟が要る。何でもかんでも聞くわけにはいかないという局面に、ぶち当たることがある。そこでどうするかというときにやっているのは、プロットを書いた後のことが多いんだけど、サブテキストを書く。
このサブテキストは、キャラクターに関する情報みたいなもの。『ハッピーアワー』を作っていたときは個ぐらい、例えば何が好きですか、とか、家族と仲がいいですか、とか、質問表みたいなものを作って、想定しているキャラクターにそれを答えさせていく。これもある種、対話形式なんですけど。
千葉 仮想カウンセリングみたいなものですね。
濱口 それでそのキャラクターの、物語の必要性を超えて、情報量を増やしていく。その中には、普通だったら聞けないような、セックスは好きですか、とか、人を愛することはあなたにとってどういうことなんですか、みたいなことを聞いたりする。キャラクターの傾向によってはそれに答えなかったりするから、それをさらに深掘りするみたいな、よく分からないフィクショナルな遠回りもあるんですけど。こうすると、ある種の仮想的な深掘りが可能になっていって、キャラクターが準-他者化していく。要するにキャラクターってプロットができてる場合、構造の要請に従って動くわけですよね。でも、その要請に従って動き過ぎると、面白くないわけです。すごく世界が平板化する。
千葉 もっと余りも欲しいってことですよね。物語以外のところでは、全然違う動きをしている可能性があるわけで。