フィクションゆえの「仮固定」
濱口 キャラクター一人一人は、たまたまこの物語の状況に出会っているだけであって、彼らは彼らの人生を生きているはずである。あくまで自分の中で仮のものとして考えながら、その情報を増やしていくと、容易にはキャラクターが動かなくなる。これは本当にいいことと悪いことがあるんですけど。物語の要請に従って、それこそロールプレイングゲームみたいに、聞いて、情報を教えてくれるみたいなやりとりがあったら、話はぱんぱん進む。でも現実生活ではそうはならないじゃないですか。
千葉 聞いていると、やっぱりすごく人間を扱っているんですね。でも、半分、彼らはバーチャルな存在となっているわけでしょう。それこそ分析的にいえば、自分の中にある何かがそういうアバターとなって、それを複数のものに分極させて、その間の関係性がいろいろ展開していく。
濱口 これはサブテキストを書くうえでの問題で、結局、自問自答とか自分の投影みたいになる可能性が高い。でもキャラクターが自分になってしまう問題を避けるために、もう一回リサーチして、職業的な背景を加えたりする。ただ、そうするとリサーチもサブテキストも、物語を構築していく作業を邪魔する要素でもあるんです。どんどん拡散していくし。そこで、でもこれは、いま私が書いてしまうフィクションなんだから致し方がない、という本当にまさに仮固定をする。
千葉 プロットは、ある種の切断でもある。今回はこのプロットでいくか、とそういう感じなんですかね。
濱口 そう。毎回、ひどいプロット書いたな、みたいな感じになるんですけど。
「偶然性」の余地が大きかった『悪は存在しない』
千葉 『悪は存在しない』も、プロットとしては分かりやすい話じゃないですか。資本主義と山の生活の対比がある。でも、それは取りあえず仮に設定されている感じがあって。別にそうじゃなくてもよかった、そういう感じがしました。
濱口 そうですね、と言っていいのかなみたいになるけど(笑)。結果としては、千葉くんの用語を使うと、仮固定の仮の度合いがより高いものが、今回はできた気がしましたね。今までのものは対話によって因果的に展開をしていく、ある種、意味的なものが確実に強く存在しているようなものを書いてきた。
『悪は存在しない』では緩みがより強くて、いろんなものが入ってこれたり、ある部分はあってもなくても問題がないような形で成立させている。だから、撮影中でも仮の度合いを更新できるというか、新たに撮影をしていて出会ったものとか、もしくは俳優がしてしまった演技みたいなものを通して変わっていく。なので、その偶然性によって映画自体ができていく、という体験でした。これは楽しかったですね。