映画の中で何べんか、置屋のおとうさんが私の耳元でわーっと怒鳴る場面があるじゃないですか。私も至近距離でばーっと返すんですけど、それが可笑しくなっちゃって、ふいちゃって、そのたびに怒られました。怒られると泣いちゃうんですね、私。泣いちゃうと目が赤くなっちゃうし涙が出てきちゃうし撮れなくなる。それでまた怒られる。しまいに増村さんが、「君ね、このスタジオ一日いくらで借りてると思ってるんだ」。
でも、そういう可笑しいのも悲しいのも悔しいのも全部乗り越えて、やらないとOKが出ないんですよね。だからそこで鍛えられちゃった。撮影が終わったときに、最初に原作を読んだ時には自分の中にはないと思っていた女の子が、実はいたのかもしれないと思うような達成の仕方だったんです。だから、増村監督に出会わなければ芝居の面白さが分からなかっただろうし、自分の知らない自分に出会う面白さも分からなかったと思う。
田中絹代にかけられた言葉
この映画が遺作となった田中絹代と出会ったのは、東京でのセット撮影の時だったという。大女優の死の3年ほど前だった。
原田 私が(スタジオの)2階にあるメイクルームにいたら、グレーのコートに赤い目だけ出ているニット帽をかぶった人が歩いてくるのが窓から見えたんです。誰だろうと思っていると、その方が上がってきて、ニット帽を取った。私は『サンダカン八番娼館 望郷』(74年)を観ていたので、「あ、田中絹代さんだ」ってすぐわかりました。すると田中さんはいきなり「まーあなた今回は大変な役でしたね、でももう少しですからね、がんばってくださいね」と。私は田中絹代さんがすごい人だということをその時はまだ知らないんです。田中さんが65歳くらいで私が16でしょ。後々溝口さんの作品などを観て、田中さんがすごい歴史を通ってきた人なんだということが分かりました。田中さんは台本を読めばどれだけ大変な役かが分かって、今目の前にいる新人の女優に何を言ったらいいかということも分かっていたんですね。その後、田中さんは鏡の前に座って、メイクさんに「髪はこう結って、こういう着物着たいの」とすっと言って、それが格好良かったですね。