そう言うと、彼はくるぶしを指差した。そこにもはっきりと、電気コードを巻きつけた際にできたような痕が残っていた。
「あと、腕の方かな……」
右腕の肘から手首に向かって7~8cmの位置で、周回するように、梱包用ロープを巻いた痕の如きケロイドが残っている。
それらは、たとえ30年の月日が経とうとも消えない、過去の恐怖と痛みを記録した「刻印」のようでもある。
指を背面に反らされて、今も左右の指を真っ直ぐ伸ばせない
通電の痕跡を撮影する私に対して、山形さんは切り出す。
「それからねえ、俺、左右の指が真っすぐ伸ばせないんですよ」
そう言うと、左右の指を目の前に並べた。見ると、左右の小指の第二関節が、いびつな形状で隆起している。
「これはねえ、剥離骨折で真っすぐならんようになったんです。こうやってね、何度も後ろ側に反らされたわけです」
山形さんは左手で右手小指を握ると、背面に反らすような状況を作って見せた。尋ねると、いずれも坂田さんにやられたという。
「社内で布団の売上の目標を立てて、1週間でどれだけというのを達成できなかったときにやられました。松永も自分でやるのは面倒くさかったんやろうね。坂田が逃げ出すまでは、自分でやらずに坂田にやらせてました」
従業員は全員、松永について怖いという印象を抱いていたと山形さんは語る。
「全員、松永の前では直立不動の姿勢でしたから。坂田とか、他の従業員からも怖い人やって聞いとったし……」
最後まで残った社員・山形さんはなぜ逃げなかったのか
山形さんは「そういえば」と前置きして、過去に起きたことを口にする。
「俺が野間と営業で北九州に行ったときに、野間が逃げ出したんですね。高速の下に車を停めたときに、野間が『ちょっと小便に行ってくる』と言って、そのまま帰って来なかった。そのときは、会社に帰ってから、『お前が逃がしたんやないか』と松永に問い詰められました。最初は言葉で言いよって、そのうち蹴られて。で、最後はデンキを流されました。けど、知らんもんは知らんしね……」
前述しているが、これは88年5月のことである。そして緒方を除き、唯一、会社に残った山形さんは、93年1月の自身の逃走まで、松永のそばにいた。なぜ逃げなかったのか、山形さんは以前の取材で私に語っていた。
「家族に危害が及ぶことが怖かったのと、自分自身も逃げ出して、もし見つかったらと思うと怖かったのです。それとあと、わずかながら松永に対する尊敬の気持ちも残っていました。そうした事情が重なり、逃げ出せなかった」