第1話は、だんじり祭の日の夜明けからはじまる。祭に出かけていく「大好きなお父ちゃん」を元気いっぱいに見送る糸子(二宮星)。だんじりに熱狂する町の人たち。そんななか、大工方(だんじりの上に乗って軽やかに舞う役目を担う)の泰蔵(須賀貴匡)の母・玉枝(濱田マリ)は心配でたまらず、目眩を起こしてしまう。
やがて玉枝が「ああなってしまう」理由が、第1話からわかる。こんなところからも、「伏線」などという言葉では表しきれない、それぞれの「人生」がすでに動き出していることが伝わる。
「男勝り」でだんじりが大好きな糸子は、「女にだんじりは曳けない」という抑圧のもと、エネルギーを持て余している。そして、女学校在学中にミシンと出会い「うちのだんじり」を見つける。ミシンで洋服を作ることが糸子の「だんじり」となっていく。
「だんじり祭」が止まった戦中、そして戦後へ
物語の舞台は、岸和田から一歩も動かない。しかし、毎年9月にやってくる「だんじり祭」を通じた「定点観測」によって、時代や世の中の動きが、ドラマのなかにより鮮烈に刻まれている。『カーネーション』は市井の人たちの日常が反照する時代的・社会的背景の描写が頭抜けており、ことさら戦争描写が屹立しているのだが、そこにもだんじりが一役買っている。
糸子の憧れであった泰蔵や、幼なじみの勘助(尾上寛之)をはじめとする男たちが次々と戦争に取られていく。だんじりは倉庫にしまわれ、江戸時代から続いてきた「だんじり祭」が止まる。
父の善作が旅先で突然死し、やがて勘助も泰蔵も、夫の勝(駿河太郎)も戦死してしまう。「曳き手を失っただんじり」に、戦争によってもたらされた喪失感を重ねる作劇が白眉だ。そのだんじりの前で、赤い花びらを土に投げ出して嗚咽する糸子の姿が目に焼きついて離れない。
戦争が終わり、残された年寄りと子どもの男たちに混じって、糸子の次女で幼い直子も曳かせてもらえることになり、ここにも時代の移り変わりが象徴されている。
その後糸子が歳を重ね、3人の娘たちが成長し、町や世の中の様子が変わっても、だんじり祭は毎年やってくる。悲喜交々、人生のすべてを乗せて、だんじりは走る。尾野真千子の最後の出演回となる第127話のだんじりの夜は、朝ドラ史、いや、ドラマ史に残る名シーンだ。『カーネーション』という物語に尾野真千子が「呼ばれた」ことに感謝する瞬間は何度もあるのだが、とりわけ127話ではその思いで胸がいっぱいになる。