夏木マリが主人公を演じる「老境編」へのバトンタッチ
ところで本放送時、あのだんじり祭の夜のシーンが最後となった尾野真千子の退場が寂しすぎて、夏木マリが糸子を演じる「老境編」にうまく乗れなかったという視聴者が少なからずいた。実は筆者もそのクチだった。
しかし、自分も歳を重ねながら何度も再放送を観るうちに、あの「老境編」こそが、このドラマの作り手の「結論」であり、「解」であるということがわかってくる。こんなところも、冒頭に述べた「観るたびに新たな発見がある」『カーネーション』の深さだといえる。
時代設定が進んで、夏木マリが初めて登場するシーンで、映像の質感がガラリと変わっていることにドキッとする。「老境編」から、撮影機材もカラーグレーディング(映像の色調補正)も一新したのだろう。
「オノマチ糸子編」ではセピアやオレンジを基調とした白熱灯の下のような映像だったのに対し、「夏木糸子編」の映像は蛍光灯の下のような、青白い質感に変わっている。「老境編」では画角も引きの画が増える。
『カーネーション』は「関係性」の物語でもあると、筆者は思っている。主人公の「老いと死」を描く「老境編」で、映像を現実的で寂寞感のあるトーンに変えたのは、ここから糸子と物語、糸子と世界の関係性が変わる、ということなのかもしれない。
「老いと死」という現実と向き合いながら
年老いた糸子の1日は、リビングボードにずらっと並んだ家族、ご近所さん、友だちの写真が収められた写真立てをきれいに拭くことから始まる。「相手が死んだだけで、何もなくさへん」と啖呵を切った糸子は有言実行をして、肉体がなくなったからといって何も変わらない、愛しき者たちとの関係を続けていた。
糸子とあの「宝」たちの関係性は不変だが、糸子と「物語」の関係性は変わった。「オノマチ糸子編」は小原糸子が己の半生を、痛みを伴いつつも懐かしく振り返る「述懐」で、「夏木糸子編」は糸子が「老いと死」という現実と向き合いながら次世代にメッセージを託すパートとなっている。
老境編で糸子は、岸和田の「ゴッドマザー」のような存在になっていく。「女だからだんじりが曳けない」ではじまった物語で、糸子は人生で起こったすべてを糧にして、あらゆる属性を超越した存在、つまりは糸子自身がだんじりのような存在になっていく。重たく「ごろっ」と動くだんじりは、それでも前に進む。