死刑囚にいつ、執行を告知するのか。この点について、かつては執行の1~2日ほど前に告知が行われていた時代があった。執行命令が下された死刑囚に対しては「心の準備」をする時間が与えられ、死刑囚どうしの対話集会や教誨師、親族との面会も許されていたという。
1949~1955年の6年間、大阪拘置所長をつとめた玉井策郎氏の著書『死と壁』(創元社、1953年)のなかには、当時の死刑囚に対する「告知」のシーンが随所に登場する。「法相のサインから5日以内に執行」というルールはいまと変わらないが、当時の大阪拘置所は執行の前々日に、所長が死刑囚本人に告知していた。
長く非行少年の矯正に関わってきた経験を持つ玉井氏は、拘置所長という立場にありながら、死刑に懐疑的な考えを持つ人物だった。1955年には、ある死刑囚の「最後の53時間」の肉声を密かに録音し、記録として後世に残している。
「極楽では私の方が先輩ですからね」という最後の言葉
その死刑囚とは1946年に起きた「神戸3人組拳銃強盗殺人事件」の大谷高雄(享年38)であった。大谷死刑囚は玉井所長の「告知」に対し次のように答えている。
「大谷君、特別恩赦を願っていたけれども、残念ながら却下になってきた。まことに残念だ。却下がきた以上、数日のうちに執行があるはずだ。いっそう、修養を怠らないようにお願いする。これまで苦労したね。よくやってくれた」(玉井所長)
「非常にお世話になりました。私はこれまで反則を繰り返し、身分帳が汚れています。これを残してゆくのは、誠に残念です。なんとか反則を消していただけませんか」(大谷死刑囚)
大谷はこの日、実姉と面会したほか、大阪拘置所に収容されていた死刑囚8名(女性死刑囚の山本宏子を除く)との茶会に臨み、全員で「蛍の光」を合唱している。翌日は俳句会が開かれ、再び姉と面会。執行は告知の2日後だった。大谷死刑囚は、刑場の開閉式の床板の上に立つ直前、お世話になった拘置所の保護課長に対し「極楽では私の方が先輩ですからね」という“最後の言葉”を残している。
この大谷死刑囚のケースは克明な記録が残されていたが、その他の文献からも昭和40年代ころまでに執行された死刑囚には「原則として前日までの告知」であったことが確認できる。それがある時期を境に、何らかの理由によって「当日告知」「即時執行」へと変化したことは間違いない。