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 1966年に小菅刑務所(東京都葛飾区)に刑場が設置されるまで、東京拘置所(旧巣鴨プリズン、刑場の設備がなかった)にいた死刑囚は、執行が近づくとおおむね数週間~1カ月ほど前に宮城県の仙台拘置支所に移送され、そこで告知、執行が行われていた。

 当時、死刑囚の間で「仙台送り」と恐れられたこの押送は事実上の「死刑告知」となっており、当時の東京拘置所に収容されていた死刑囚の場合、執行に向けて気持ちを整理する時間はかなり長かったと思われる。

『死刑囚の最後の瞬間』(大塚公子著、角川文庫)に登場する13人の死刑囚の「告知時期」に注目すると、1976年1月に執行された「連続婦女暴行殺人事件」の大久保清(享年41)と1982年11月に執行された「藤沢女子高生殺害事件」の佐藤虎実(享年41)が当日の告知。それ以前に執行された死刑囚は2名の例外を除き、前日ないし前々日に告知されている。

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「連続婦女暴行殺人事件」の大久保清死刑囚
現場検証に立ち会う大久保。執行の告知は当日だった

「例外」の2名とは、「鏡子ちゃん殺害事件」の坂巻脩吉(享年22)と、死刑囚の身で国家と法廷闘争を繰り広げた「神戸洋服商殺人事件」の孫斗八(享年37)である。この2名は、当日に死刑の告知を受けていた。

 もっとも、坂巻は「仙台送り」となった死刑囚で、当日告知とはいえ執行が迫っていたことは自覚していたと思われる。

死刑執行停止命令を2度引き出していた男に執行するための「異例の方法」

「絞首刑は残虐であり違憲」と訴えた孫斗八は、裁判所から死刑執行停止命令を2度引き出すことに成功するなど、命がけの「徹底抗戦」を繰り広げた死刑囚であった。同じく獄中闘争を繰り広げ、映画のモデルにもなった米国の死刑囚キャリル・チェスマンになぞらえ「日本のチェスマン」と呼ばれた男である。

「日本のチェスマン」孫斗八の死刑執行を伝える記事(1963年7月18日朝日新聞夕刊)

 孫は生前から「不意打ちの死刑には実力で抵抗する」「日付さえ入れれば有効となる再審請求の書類を準備し、執行を告知されたら直ちに提出する」と宣言していたため、当局としても執行のリスクを最小限にするため、事前告知の慣例を破棄せざるを得なかったと推測される。

 孫斗八の生涯を描いた『逆うらみの人生』(丸山友岐子著、インパクト出版会)には、孫の死刑執行が異例ずくめのものだったと記録されている。

「旧大阪拘置所の死刑執行場で、変則的な儀式が執行された。きまりどおりことが運ばなかったのは、死刑囚が大暴れに暴れたためである――」(同書)

 ほとんどの死刑囚は、執行の告知を受けたその瞬間には恐怖に硬直するものの、やがてそれを受け入れ、贖罪の気持ちを示しながら見事な最期を遂げると言われる。だが、全員がそうとは限らない。なかには最後の1秒まで、文字通り「決死の抵抗」を見せる死刑囚もいる。