中世には蓮如が山科本願寺を建立、本願寺再興の拠点になって、寺内町も設けられたようだ。本願寺の全盛期には、相当な規模の宗教都市になっていたという。
本願寺は一向一揆を展開する武装勢力の側面があり、対立する日蓮宗や時の権力者・細川晴元らによって山科本願寺はほどなく滅ぼされてしまう。
だから、いまの山科に宗教都市時代の面影は消え失せている。いまのベッドタウンとしての山科のルーツを、中世の宗教都市に求めるのはムリがありそうだ。ただ、山科駅の南西にある山科中央公園のあたりには本願寺の土塁跡が残っている。その脇には蓮如上人御廟所もある。
「身を隠すのにちょうどいい」町に押し寄せた都市化の波
江戸時代の山科は、京都近郊の農村地帯だ。さすがにそこらへんの農村とは違い、禁裏御料、つまり皇室の土地だったというが、本質的に農村であることは変わらない。
ちなみに、取り潰しになった赤穂藩の大石内蔵助が討ち入りまでの隠遁の地として、山科盆地の片隅で暮らしていたという。身を隠すのにちょうどいいと考えられていたくらいの、そういう土地だったということだろう。
それでも、東海道が整備されてからは一貫して街道筋の町として、ある程度の賑わいはあったのだろう。交通の要の地は、いつの時代も必然的に賑わいを得る。交通手段が徒歩か鉄道か自動車か、その違いがあるだけだ。
明治に入ると、いよいよ山科にも都市化がやってくる。琵琶湖から京都市内まで水を通す琵琶湖疎水が整備された。山科駅の北側、山が目の前まで迫ってくるいわば“駅裏”には、山肌に沿うようにして琵琶湖疎水がいまも流れている。
昭和初期には現在の府道143号線、三条通りが整備され、交通の便の良さもあってカネボウなどの工場が進出。工場に付随してそこで働く人たちの暮らす町という性質も帯びてゆき、京都近郊の農村地帯は京都近郊の工業・住宅地へと変わっていった。昭和初期の山科は、映画館やダンスホールなどもあるような、歓楽街としての一面も持っていたという。
そして戦後、人口が急増する時代になってから、いよいよ大型マンションなども進出して本格的なベッドタウンへと変貌していった。いまでは大規模工場なども姿を消し、住宅都市・山科になっている。交通の便の良さは、形を変えても人を呼び寄せることができるということなのだ。