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 この道を東に辿ってゆくと、名神高速道路に通じる京都東インターチェンジ。もうひとつずっと南に行くと、新幹線の高架と並行して国道1号、五条バイパスがこれまた東西に通っている。

 このあたりをまとめれば、山科盆地の北の端を通っていた旧東海道に対し、少し南にバイパスとして旧国道1号が整備され、さらにもっと南にもうひとつのバイパスとして現国道1号が通った、という形だ。

 どの道も、なんだかんだで人通りもクルマ通りも途切れない。どうやらさすがの天下の東海道、何度バイパス手術をしても追いつかないくらいの交通量があるということだろう。山科は、鉄道のみならず道路においても京都の入口として要の地であるようだ。

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駅前から延びる目抜き通りに隠された“歴史”

 そんな山科の町は、東西に通る3本の東海道を中心に、駅前からまっすぐ南に延びる目抜き通りが軸になっている。

 

 その周囲は、京都盆地の市街地とはうって変わって細い路地が右へ左へ入り組んだ住宅地。昔ながらの住宅が並んでいるエリアがあるかと思えば、大きなマンションがその先に突然姿を見せたりするような、新旧の入り混じったベッドタウンである。

 京都盆地と同じように、山科駅を中心とするこの一帯も小さな盆地になっている。西は東山丘陵、東は滋賀県と京都府の府県境を成す醍醐山地、北は東山丘陵がそのまま続いて比叡山へ。南側は盆地の中を流れる山科川がそのまま宇治川に合流するまで開けている。

 そして、旧東海道が通っているということからわかるように、大津方面(近江)から京都にやってくる旅人は、きまってこの山科盆地の中を抜けねばならなかった。それは今でも変わらないのだが、鉄道や高速道路で素通りできるわけでもない時代は、京都の入口としての山科のポジションは、そうとうに大きなものだったに違いない。

 

 百人一首でおなじみ、蝉丸の「これや此の 行くも帰るも 別かれては 知るも知らぬも 逢坂の関」。ここに登場する逢坂の関は、山科盆地東側の醍醐山地にある山のひとつだ。いまは、旧東海道に加えてJR琵琶湖線のトンネルも通っている。

 そんなポジションだったから、とうぜん山科の町の歴史も京都と一体となって刻まれてきた。古くは天智天皇の時代から都から離れた遊猟の地となり、平安時代以降は都との近さもあって貴族たちの別荘が置かれている。